1573年3月3日(天正元年1月30日)は室町幕府15代将軍足利義昭こちら 参照)が織田信長に対して挙兵した日に当たります。




この当時織田信長は尾張国・美濃国を統一し、義昭を室町幕府15代将軍にすることにより、その実力を天下に示していました。
そして信長は征夷大将軍・足利義昭の名目で各地の大名に上洛を促しますが、これに従わなかった大名がいます。
それが越前国朝倉義景こちら 参照)です。
義景が上洛しなかったことに対し信長はすぐに越前討伐軍を起こしますが、その際信長にとって予期せぬことが起こります。
お市方の婿浅井長政こちら 参照)裏切りです。
これにより信長は窮地に陥り、信長は盟友徳川家康を除き畿内では敵だらけになってしまいます(第一次信長包囲網)。
この包囲網には浅井・朝倉の他、本願寺・延暦寺・三好家・六角家などが挙兵していますが、実はこの時足利義昭は挙兵をしていません。
この第一次包囲網は元亀元年(1570年)12月には信長と浅井・朝倉家と和睦を結び収束します。




しかし、義昭は次第に信長の自分に対する弾圧が強くなり、将軍になったのに信長の操り人形的な扱いに不満を持ち、全国の大名に対して『信長を打て』と言う手紙を送ります。
これに呼応したのが第一次包囲網に参加した大名家に加え、松永久秀こちら 参照)や武田信玄などがいます。
信長に抵抗するため、朝倉家・浅井家は甲斐の武田信玄と連携を取り、信玄は西上作戦を決行していきます。
その一環として行われたのが、三方ヶ原の戦いこちらこちら 参照)です。
信玄はこの戦いで家康に完勝し、さらに西上していきます。
この知らせを受けた義昭は大喜び。
それまで信長とは表面的な友好関係を脱し、1573年3月3日(天正元年1月30日)義昭は二条城に篭って挙兵します。
初めは信長は義昭と和睦を目論みますが、義昭はこれをはねのけたため、信長は京に進軍します。
信長が京に着陣した際、義昭の配下だった細川藤孝こちら 参照)・荒木村重が義昭を見限り信長に付きます。
そして義昭を攻撃しましたが、天皇の勅命により講和を結びます。
この講和の直後、武田信玄が病死してしまい、武田軍は甲斐に撤退してしまいます。
その後7月に信玄の兵をあてにし、再び義昭は挙兵しますが武田軍は当然到着することなく信長に攻められ、あえなく追放をされてしまいます。
これにより一般的には室町幕府は滅亡こちら 参照)します。
このすぐ後には朝倉・浅井両家も滅亡していきます(第二次信長包囲網)。




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