久々のブログ更新です。




2月24日はとある用が有り、長野県と群馬県の県境にある北軽井沢に行ってきました。
とは言っても、北軽井沢には午後に行く予定でしたので、時間がある午前にせっかくなので新幹線を乗り越して信州上田に足を運んできました。



信州上田といえば・・・
真田家でございます。
そして真田家といえば上田城
この上田城は真田幸隆様の御三男真田昌幸様(当初は武藤喜兵衛と名乗っていましたが、天正3年5月21日(1575年6月29日)に起こった長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍VS武田勝頼様率いる武田騎馬軍団が激突をし、ここで武田家は織田・徳川連合軍の鉄砲攻撃により壊滅的な打撃を受け、武田家は多くの重臣達が討死してしまいます。
その中には、武田四名臣に数えられていた山県昌景公、内藤昌豊公、馬場信房(馬場信春)公などが討死したと言われています。
ちなみに残りの一人高坂昌信公は当時は海津城にて上杉の抑えをしていたため参加をしていません。
そして、当時真田家を継いでいた幸隆様の嫡男真田信綱様、次男真田昌輝様についてもこの戦いで討死をしたため、急遽武藤家を継いでいた昌幸様が真田家を継ぐことになります。
ちなみによく間違えられやすいのですが、真田家は幸隆様のあとは昌幸様ではなく、1年間だけ信綱様が跡を継いでいます。
あまりに短い期間で、幸隆様、昌幸様ほど武功を挙げてはいないため、これはよく間違えられます。




さて、話を上田城に戻して、上田城は天正13年(1583年)に築城を開始され、築城後すぐにここは戦火に見舞われます。
それが第一次上田合戦です。
この戦いは、徳川家康北条氏直との間に勝手に取り決められた徳川の傘下真田家所有の沼田城と北条氏が制圧していた信濃佐久郡の交換が発端で、昌幸様はこれを拒否し、面目を保つため徳川軍は7千の兵をもって上田城に攻撃を仕掛け、わずか1200人の兵をもってこれを撃退します。
この模様は真田家の『真田軍記』そして徳川家の『三河物語』にも詳細が記されていて、この戦いの後、家康は真田家を警戒し徳川四天王の一人本多忠勝公の娘小松姫(幼名稲姫)を嫡男真田信幸(後信之と改名)様に嫁がせ、真田を味方に引き込みます。
これが後の関が原の戦いで親兄弟が敵味方に別れ戦う結果になります(第二次上田合戦)。
第二次上田合戦では徳川秀忠率いる徳川軍主力3万8千の兵で上田城を攻撃し、真田軍(真田昌幸様、幸村様親子)は3500人の兵力でこれを撃退させることに成功し、真田の名声はうなぎのぼりに上がります。
しかし、肝心の関が原の戦い(こちらこちら 参照)では東軍徳川家康は西軍石田三成公に完勝し、真田親子は敗軍の将とし、九度山に幽閉されてしまいます。
真田家についてはこちら も参考にしていただければと思います。




上田についての簡単な説明はここまでにして次は上田城の写真を載せていこうかと思いますが、それは次のブログで・・・




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