1591年2月15日(天正19年1月22日)は農民から天下人へと上り詰めた豊臣秀吉こちら 参照)の弟豊臣秀長の命日に当たります。

秀長は秀吉の信頼を厚く受け、その片腕として活躍し内外の政務および軍事の両面で豊臣政権で活躍し、天下統一に貢献しました。




秀長は秀吉の母(後の大政所)と再婚した竹阿弥の間に天文9年3月2日(1540年4月8日)に生まれます。
秀吉は母仲と弥右衛門こちら 参照)の間に生まれたので義兄弟に当たります。
しかし、これには異説も存在し、同父弟という説も存在します。
秀長が秀吉の元に仕えた正確な時期は実ははっきりとはせず、定説では秀吉とねね(高台院)との婚礼(永禄7年(1564))の後に仕えたというのが現在では通説とされています。




秀長が大々的に表記されるのは秀吉が天正元年(1573年)の浅井家を滅ぼしたこちら 参照)功により、長浜城主になってからです。
この数年後には秀長の右腕となる藤堂高虎こちら 参照)が任官し、この主従は秀長の養子である秀保が死去するまで続きます。
この時期から名を長秀の諱(いみな)を使用しています。
この諱は信長の『長』と秀吉の『秀』からとっています。
同時に秀吉は名字を『木下』から『羽柴』に改めたため、秀長も羽柴に名字を改めています。
ちなみにこの羽柴という名は織田家の重臣丹羽長秀柴田勝家からそれぞれとっています。




後に秀吉は信長の命令により中国攻め(毛利討伐)の総司令官となると、山陰道及び但馬国平定の指揮を委ねられています。
秀吉の軍師で両兵衛(または二兵衛)と言われた黒田官兵衛こちらこちら )宛の秀吉直筆の手紙には、信頼の代名詞として『小一郎(秀長の通称)』の名前が出てくるほど、秀吉陣営の最重要の人物にまで成長します。
この中国攻めでは竹田城攻めを始め、城を包囲し城内の兵糧をなくさせ降伏させた三木合戦および鳥取城の戦い城の周りに堤防を造り水攻めにした備中高松城の戦いなど秀吉の主要な戦いに参戦していきます。




現在の大和郡山市箕山町に『大納言塚』が伝わります。

また大阪市中央区の豊國神社こちら 参照)には、兄・秀吉及び甥・秀頼と共に祀られている。




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