1573年1月25日(元亀3年12月22日)は甲斐の虎こと武田信玄西上作戦の過程で行われた三方ヶ原の戦い(こちらこちらこちら 参照)の行われた日に当たります。
この戦いは浜松城を居城としていた徳川家康が信玄の誘いに乗り、家康は人生で唯一の大敗を喫した戦いで有名です。




ここで過去のブログを載せて終わるのは面白くないので、この戦いで戦死した武将を上げてみようかと思います。
今回挙げる武将は家康の身代わりとなり、家康を浜松城へ退却させ、その際討死した夏目吉信を取り上げてみようかと思います。

吉信は誕生年ははっきりしてはいませんが、永正15年(1518年)だと言われています。
吉信は古くから松平家(徳川家)の家臣で、永禄5年(1562年)の三州八幡合戦の際、今川軍の攻撃で家康軍が総崩れとなった時、殿軍を務め国府までの間に6度踏み止まり奮戦したことにより、家康から軍労として備前長光作の脇差を贈呈されます。

翌年には三河一向一揆が起こると、一揆側に加担し、家康と敵対します。
しかし、乙部八兵衛の内通により松平伊忠に捕らえられ、後に伊忠の嘆願により家康に許され帰参し、再び家康の家臣として活躍していきます。

そして三方ヶ原の戦いの時、武田軍に攻撃を受け、家臣たちは家康に浜松城へ退却をするように進言をしますが、家康は討死する覚悟で武田本陣に突撃をしようとし、全く話を聞き入れませんでした。
そんな中、吉信は家康の兜と鞭をぶん取り、家康を強引に浜松城へ退却させ、自分は


『我こそは徳川家康だ。
武田の者ども、家康を打ち取り手柄にせい。』


と叫びながら注意を引き、家康の撤退の時間を稼ぎ、華々しく身代わりになり戦死します。




ちなみに吉信の三男に吉次という人物がいますが、吉次は三方ヶ原の戦いの前に同僚と口論になり斬り殺し出奔します。
しかし、名を変えて徳川家に奉公しますが、関が原の戦い直後、家康に同僚殺しがバレてしまいますが、父吉信の忠節を考慮し許され、変わらず徳川家に奉公することになります。
また、大坂夏の陣の後に家康に呼ばれ、


『今こうしていられるのもお前の父吉信のおかげだ、感謝している。』


と礼を言われ家康の三男徳川秀忠の家臣に配されます。




ちなみに子孫には文豪として名を知られ、千円札の肖像画にも描かれた夏目漱石がいます。



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