1622年1月24日(元和7年12月13日)は織田長益の命日に当たります。




長益は織田信秀の十一男で、有楽斎如庵と号し、後世では有楽、有楽斎と称されます。
茶仙千利休に茶を学び、利休十哲の1人にも数えられます。
後に自ら茶道有楽流を創始し、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに建てられた茶室如庵は現在国宝に指定されています。




長益は実は前半生はあまりはっきりしてはいません。
天正2年(1574年)、尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修します。
それ以降、信長の長男織田信忠の旗下にあったと思われ、甲州征伐(武田征伐)(1582年)などに従軍していきます。
しかし、同年の本能寺の変の際、信長が本能寺において家臣明智光秀に打たれ、信忠とともに二条御所にあったが、信忠は二条御所で切腹し、長益自身は城を脱出し、安土を経て岐阜へ逃れたと言われています。
変後は甥の織田信雄に仕え、検地奉行などを務めます。
小牧・長久手の戦い(こちら 参照)では信雄方として徳川家康に助力します。
天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として摂津国嶋下郡味舌2千石を領します。
この頃より、剃髪して有楽斎と称します。
姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っています。




関が原の戦いこちらこちら 参照)の際は長男長孝とともに東軍に属し、小西隊・大谷隊・石田隊・宇喜多隊と転戦し、戦後大和国内で3万2千石、長孝は美濃野村藩に1万石を与えられました。

大坂冬の陣では豊臣方として参加し、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担います。
冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出しますが(こちら 参照)、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まり、家康・秀忠に対し


『誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味』


と許可を得て豊臣家から離脱します。
大坂退去後は京都に身を置き、茶道に専念し趣味に生きていきます。




本能寺の変の時、信忠に自刃を促したのは有楽斎と言われています。
当初は有楽斎も自刃するはずでしたが、土壇場になって当の本人は二条城を脱出し安土を通り、岐阜に逃れますが、この時、


『織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す』


と皮肉られています。
源五とは有楽斎のことで、お腹召せ召せは信忠に切腹をさせるという事で、むつきは六月を表し、旧暦の6月2日に本能寺の変が起こっています。
歌を簡単に言ってしまうと


『有楽斎は信忠を切腹させておいて、土壇場で逃亡した卑怯者だ』


と言っています。
また、大坂夏の陣直前にも戦前に離脱したことから『卑怯者』というレッテルがついてしまいがちな人物です。
ただ、当時としては『家名を残す』ことが重要なので、完全に卑怯者と呼べるかどうかというと疑問が残るところですね。
加賀100万石で有名な前田利家賤ヶ岳の戦い直前に戦線離脱し、これをきっかけに柴田勝家は敗北したりもしていますし…
もっとも戦い前に利家は秀吉と通じていたとも言われてはいますが…




東京都千代田区有楽町という地名がありますが、この地名は織田有楽斎に由来するとされています。
関が原の戦い後、東軍に属し、数奇屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に『有楽町』と名付けられています。



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