1568年12月21日(永禄11年12月3日)は筑前福岡初代藩主キリシタン大名として有名な黒田長政の誕生日にあたります。
長政は豊臣秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛(竹中半兵衛と並べて両兵衛と言われています)の嫡男として生まれます。



天正5年(1577年)から織田信長の人質として、織田家家臣の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に預けられ、長浜城にて過ごします。
人質に預けられた翌年の天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が謀反を起こし、有岡城に籠城を取ります。
そこで、秀吉は村重を説得するため、親しかった官兵衛を使いに出しますが、一向に戻ってこない事に不信感を抱いた信長は、黒田官兵衛は織田家を裏切り、村重と共に謀反を企てたとし、秀吉に人質として預けられていた官兵衛の子供を殺すように命令をします。
しかし、秀吉はどうしても官兵衛が裏切ったとは考えられなかったため、この処理を軍師竹中半兵衛こちら 参照)に一任します。
半兵衛は偽物の首を送り、主君を騙します。
その後有岡城は落城し、官兵衛は地下牢から救出され、父とともに姫路へ帰郷していきました。
この時、長政は半兵衛からの大恩を忘れず、竹中家の家紋を自分の家紋に取り入れたと言われています。



その後も秀吉の毛利攻めなどにも参加をしていきますが、天正10年6月信長が本能寺にて自刃するという事件が起こります(本能寺の変)。
信長が亡くなってからも秀吉のもとで数々の手柄を立てていきます(小牧・長久手の戦いでは大阪城の留守居を勤めたりもしています)。
また、九州征伐では長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げ、戦後親子の功績を合わせて豊前国中津12万5千石を与えられます。
天正17年(1589年)、父が隠居し長政は家督を相続し、同時に従五位下甲斐守に叙任します。
また、文禄・慶長の役でも長政は数々の戦いで功績を挙げますが、秀吉が亡くなり、帰還をした頃からは、吏僚である石田三成こちらこちら 参照)や小西行長らと対立していきます。
そして慶長4年(1599年)前田利家が亡くなると、武断派の福島正則加藤清正らと共に石田三成を襲撃しますが、これは三成が敵である徳川家康のもとに駆け込み、仲裁に入ったことにより収まります。
翌慶長5年(1600年)家康は会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとこれに従い、小山こちら 参照)にて三成挙兵の知らせを受けると、東軍武将として関ヶ原の戦いこちらこちらこちら 参照)において戦うことになります。
関ヶ原では細川忠興こちら 参照)や竹中重門らと共に三成本陣が陣取る笹尾山を攻撃し、島左近らと激戦を繰り広げます。
また、戦争前には松尾山に陣を張っていた小早川秀秋こちら 参照)に寝返り工作などを行うなど調略面でも功績を挙げていきます。
これらの功績から戦後、家康から一番の功労者として筑前名島(福岡)52万3千石を与えられます。



大坂の役では冬は江戸城の留守居を務め、代理として嫡男黒田忠之を出陣させ、翌年の大阪夏の陣では、徳川秀忠に属して豊臣方と戦います。
元和9年8月4日(1623年8月29日)、徳川秀忠の上洛に先立って早くに入京しますが、病に倒れ京都知恩寺にて56歳で死去します。



余談ですが、ウルトラマンの怪獣に古代怪獣ゴモラというのがいますが、ゴモラの頭のデザインは長政の兜を元にしているのは有名です。



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