1815年11月29日(文化12年10月29日)は彦根藩15代藩主井伊直弼の誕生日にあたります。
直弼は幕末期の大老を務め日米修好通商条約に調印、また、強権を持って国内の反対勢力を弾圧しますが(安政の大獄)、それらの反動を受けて安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外において水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士たちに暗殺されてしまいます(桜田門外の変)。
また、直弼は彦根藩初代藩主井伊直政同様『井伊の赤鬼』という異名を持っていますが、井伊直政は武勇に優れ、合戦場ではその勇ましさからの敬意を込めての赤鬼ですが、直弼の場合は安政の大獄による過酷な処分により、多くの人から憎まれていたため赤鬼と呼ばれていました。
そのため、この赤鬼には全く違った意味合いを持っています。
また、直弼の下で老中になり、財政を担当していた間部詮勝という人物もいますが、こちらは『井伊の赤鬼』に対して『間部の青鬼』と言われていますが、冷静に政敵と対話を進めていった姿勢は評価されています。




ここでは直弼の安政の大獄について簡単に書いていこうと思います。
安政の大獄は安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行ってきた弾圧的な政治です。
当初は『戊午の大獄』とも呼ばれていたようです。
ちなみに『戊午(つちのえうま、ぼご)』とは干支の一つで、十干と十二支を組み合わせた60種からなり、戊午はその55番目に位置します。
そして西暦を60で割って58が余る年を戊午と言います。
1858年を60で割ると余りが58になりますね。
そのため戊午の大獄とも呼ばれています。
ちなみに今年は壬辰の年で、来年は癸巳の年になります。


話がそれました。
時代は少し遡り、1842年中国(当時清)ではイギリスと戦争をし大敗をします(アヘン戦争)。
この影響で日本にも危機的意識が高まっていき、老中阿部正弘が幕政改革を行い、1854年にアメリカと日米和親条約ロシアと日露和親条約を結びます。
また、アメリカと和親条約を結ぶ前年1853年には黒船が来航し(こちら 参照)、また、12代将軍徳川家慶が死去し、13代将軍に徳川家定が就任しますが、病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍の後継問題が起こります。
その候補として水戸藩で英明との評判が高い一橋慶喜を支持する一橋派と、血統を重視した紀伊藩徳川慶福(後の徳川家茂を推す保守路線の南紀派とに分裂し、激しい対立をします。
そんな中アメリカのタウンゼント・ハリスが通商条約への調印を江戸幕府に迫ってきました。
幕府は条約締結はやむなしという意見が多かったのですが、調印には朝廷の勅許が必要だったため老中堀田正睦が京に上り、勅許を得ようとしました。
当初勅許は簡単に得られるものだと思っていたのですが、梅田雲浜尊皇攘夷派から勅許を得ることができず、すごすご江戸へ帰ってきます。
堀田が戻ってきた安政5年4月、南紀派の直弼が大老に就任し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、将軍の後継を徳川家茂に勝手に決定させてしまいます。
これらの行いに対して前水戸藩主徳川斉昭は、尾張藩主徳川慶勝福井藩主松平慶永らと連合し、直弼を詰問しますが、これが直弼の怒りに触れ彼らを隠居謹慎処分にします。
これにより安政の大獄が始まることになります。
この弾圧は幕府側の同調者であった関白九条尚忠が辞職に追い込んだり、公家やその家臣まで捕縛するという状態にまでなっていきます。
京都で捕らえられた志士たちは江戸に送られ、江戸伝馬町の獄などで拷問などにあい、最終的には切腹や死罪など酷刑に処せられていき、最後に吉田松陰こちら 参照)が処刑されたと言われています。
そしてこの安政の大獄は安政7年3月3日の桜田門外の変において直弼が暗殺されることにより収束します。

安政の大獄は幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因になったとも言われる。



よろしければお願いします。


ペタしてね


読者登録してね