1830年9月20日(文政13年8月4日)は明治維新の精神的指導者・理論者として知られる吉田松陰の誕生日にあたります。
松陰は杉百合之助の次男として生まれ、4歳の時父の弟吉田大助の仮養子になります。
翌年1835年大輔の死とともに吉田家を嗣ぐことになりました。
1853年江戸で大騒ぎとなる事件が起こります。
ペリーが黒船を引き連れ浦賀に来航(こちら 参照)しました。
また、日本はアヘン戦争(こちら 参照)においてイギリスに清(中国)が大敗したことに対し、幕府も危機感を感じ1858年(安政5年)無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明し間部詮勝の暗殺を計画しますが、弟子であった高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)などの協力を得ることができず計画は頓挫されました。
さらに、松陰は『幕府が日本最大の障害になっている』と批判し、倒幕を持ちかけている。
この結果松陰は捕らえられ、野山獄に幽因されてしまいます。
やがて井伊直弼による安政の大獄(一橋派や尊王攘夷などを弾圧)が始まると江戸に送られます。
当初松陰の罪は『遠島(島流し)』でしたが、松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を『死罪』にするのだ妥当だと主張したため、これが井伊直弼の逆鱗に触れ、1859年11月21日(安政6年10月27日)に伝馬町にて斬首されました。
享年30(満29歳没)。


松陰は獄中にて遺書として門徒たちに向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世の


『身はたとひ(え) 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』


と言う句は有名だと思います。
意味としては


『たとえこの身が絶え武蔵の野辺に朽ち果てようが、大和魂だけはこの地に留めて置こう』


というような意味です。

また家族宛には『永訣書』を残しており、これに記されている


『親思う 心にまさる 親心 けふ(今日)のおとずれ 何ときくらん』


も辞世の句として知られています。
意味としては


『子供が親を思う心よりも親が子供を思う心の方が深い。今日この日が来てしまった事(斬首される事)を知ったら親はどう思うだろうか』


というような意味です。
この2つの句はとても有名だと思います。
自分が初めてこれを知ったのが『お~い龍馬』と言うアニメだったのですが、それでこの辞世の句を聞いたとき涙した記憶があります。


処刑後、小塚原回向院の墓地に葬られたが、1863年(文久3年)に高杉晋作ら攘夷派の志士たちにより東京都世田谷区若林に改葬されています。

吉田松陰の弟子には高杉晋作桂小五郎(木戸孝允)久坂玄瑞山縣有朋伊藤博文など幕末や明治維新で活躍した偉人たちが多数います。


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