1600年11月17日(慶長5年10月12日)は九鬼水軍の頭領九鬼嘉隆の命日にあたります。
嘉隆は織田信長豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、3万5千石の大名になったことから別名海賊大名と呼ばれています。
ちなみに大名を名乗るのは1万石以上が必要です。



九鬼家は初めは伊勢北畠家に仕えていましたが、戦国時代中頃になると勢力が弱まっていきました。
そんな中隣の国尾張(現:愛知県西部)の大名織田信長が永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いにおいて、東海道一の弓取りと謳われてた今川義元を打ち取り、勢力を拡大していきます。
また、この頃から信長は目標を京に向けていました。
京を目指すには美濃(現:岐阜県)から近江(現滋賀県)を通るルートと、伊勢(現:三重県)を通るルートがありましたが、伊勢ルートを制覇するためにはどうしても九鬼水軍を取り込む必要がありました。
そのため、信長は家臣の滝川一益を派遣し、見事九鬼水軍は織田家のお抱え水軍にすることに成功します。
また、この九鬼水軍は後の信長包囲網に参戦してくる石山本願寺(伊勢・長島一向一揆)や毛利・村上水軍との戦いに大いに活躍します(第一次木津川口の戦い・第二次木津川口の戦い)
実はこの第一次木津川口の戦いで九鬼水軍は石山本願寺を包囲しますが、援軍に駆けつけてきた毛利・村上水軍の機動力に翻弄され、船を焼かれて惨敗を喫してしまいます。
これに激怒した信長は、嘉隆に燃えない船を作るように命じます。
この時たどり着いたのが船に鉄板を貼った大型船でした。
しかしこれには1つの問題がありました。
それは、船を1隻作るのに膨大な資金が必要ということでした。
嘉隆はこの案を信長に提案し、信長はこの案に理解を示し、できる限りの手配をしたおかげで、見事6隻の鉄甲船を完成させ、再び石山本願寺を包囲します。
これに対し石山本願寺は再び毛利家に援軍を要請し、九鬼水軍は毛利・村上水軍と海戦が行われます(第二次木津川口の戦い)。
この戦いで九鬼水軍が新しく完成させた鉄甲船の威力は凄まじく、毛利・村上水軍600隻を見事打ち破ることに成功し、リベンジを達成させます。
この功績により信長から7千石を加増され、3万5千石の大名になります。




しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変により信長が死去してしまい、その頃堺に駐留していた九鬼水軍に豊臣秀吉が信長同様水軍の頭領として召抱え、山崎の戦いに臨み明智光秀を打ち取ります。
これ以降嘉隆は九州征伐小田原征伐などに水軍を率いて参陣します。
天正20年(1592年)の文禄の役では脇坂安治加藤嘉明らと水軍を編成しますが、安治の抜け駆けにより閑山島海戦において朝鮮水軍に敗北して、その後も海戦では敗北してしまい、秀吉は陸海共同での沿岸防備を行うよう命じ、九鬼を含む日本の水軍は朝鮮水軍の攻撃を幾度も撃退し、朝鮮水軍の積極的な活動は激減していきます。
ちなみに嘉隆は慶長の役には参加していません。




秀吉の死後、日本は東西に大きく勢力が分断し、関ヶ原において天下分け目の戦いが行われます。
この戦いでは、嘉隆は西軍に、子の守隆は東軍につき、親子で戦うことになります。
これは戦いの結果どちらかが敗れても、家名を残すことができるとしての嘉隆の戦略です。
このように東西に家を分けたところは他にも多くあり、代表的なところでは真田昌幸こちら 参照)や津軽信枚などがいます。
関ヶ原の戦い(こちらこちらこちら 参照)では東軍徳川家康勝利を収め、東軍についていた守隆は家康と会見をし、父嘉隆の助命を嘆願します。
家康は守隆の功績の大きさを考慮しこれを許されますが、急使がこれを伝える前に、九鬼家の行く末を案じ、先走った家臣の豊田五郎右衛門が独断で嘉隆に切腹をするように促し、嘉隆は和具の洞仙庵にて自刃をします。
嘉隆の首が家康のいる伏見城に送られる途中、この事を知った守隆は激怒して豊田をのこぎり挽きで斬首しさらし首にします。


首級は伏見城に運ばれたため、守隆は胴体のみを洞仙庵近くに葬られ、胴塚が建てられます。
首級は首実検の後に築上山頂に葬られ、首塚が建てられています。
また、墓所は常安寺(鳥羽市)にあります。





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