1558年10月27日(永禄元年9月16日)は本願寺教如の誕生日にあたります。
教如は真宗大谷派(東本願寺)の祖(本願寺12代目)につきます。
本願寺は織田信長との石山合戦で敗れますが、文禄2年(1593年)閏9月16日、弟の准如豊臣秀吉の力により法主となり、本願寺の後を継ぎ12代目になります。
そして慶長3年(1598年)8月18日、天下人秀吉が死去し、その2年後関ヶ原の戦いこちらこちら 参照)が起こります。
この時、教如は徳川家康に協力したことで法主に再任させようと考えます。
(この時、関ヶ原の戦い前夜の謀報活動をしますが、これが石田三成方に察知され、辞世の句を認めるほど危険な目にあいます。
しかし、織田秀信らの協力や門徒の奮戦などにより無事帰洛を果たしています。)
しかし、家康は三河統一の際に起こった三河一向一揆が永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)に起こります。
この一向一揆により窮地に陥られた経緯があり、また重臣本多正信


『本願寺の表方(准如)と裏方(教如)との対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分したほうが良いのでは』


との提案をし、家康はこれを採用し、本願寺の分立を企図します。



現在では堀川七条に位置する『西本願寺』(正式名称『本願寺』)の東に位置するため、真宗大谷派を『東本願寺』と通称されています。
また他にも『お東』や『お東さん』とも通称されています。



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