八万堂跡(後の大歳神社旧跡。紀の川市桃山町調月) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

おはようございます(´・ω・`)


昨日、ぷち散策をしてきましたニコニコ


最寄りの場所から辿りますウインク


紀の川市貴志川町北鎮座の丹生神社東側の市道を北へ走り、国道424号と交わる交差点を右(東)に曲がると左側に八万堂跡(大歳神社旧跡)があります月見


八万堂跡『境内由緒書』『紀伊続風土記』より

大歳神社(大年宮)旧跡で、地名「調月」発祥の地。旧那賀郡吉伸荘調月村にあり、江戸時代後期は社号で「山堂社」と記され、境内は周140間(約252メートル)。『紀伊続風土記』に一文あり、「明神の巽七町小山の上にあり、祀神八幡宮土人舊宮と呼ふ」と記されている。また、大歳神社の条にも「…當社舊は宮の巽七町小山の上今山の堂と云處にありとそ。今尚舊宮と呼ひ祭禮の渡り物此地に至るといふ」と記されている。

由緒書によれば、建立時期は不詳ながら、飛鳥時代にはすでに存在しており、我が国に仏教が伝来した時、仏教を巡って国が二分し、推進派と廃仏派が対立を深め、この地の領主は推進派の吉仲麻呂と云う人物で、聖徳太子(厩戸皇子)はこの年、当地の陣にて越年する。その場に僧12人が来て、そのうちの1人、師薬正人が太子に向かい、「御運開ける兆しあり」と伝え、僧らは八万堂で一心にお経を講じた。丁末(587年)6月12日、廃仏派の物部守屋を調伏あり。万事、思し召すままに調ったことから、お経の霊験を崇め、塚を築いて経文を奉納し、「塚築(つかつき)」と云われた。しかし、文字には御調物の調と三日月の月と記し、「調月(トトノウツキ)」と記して「ツカツキ」と呼ばれたと云われ、この由来が現在の地名である調月の始まりになったと云われる(『紀伊続風土記』に「當村は調月といふ人初めて開きし地なり、故に村名とす。高野山所藏弘安八年の文書に調月荘あり、即當村をいふなり」と記されている)。

由緒書月見

石灯籠月見

1基のみ建立されていますニコニコ



全景月見

曽池🌊

八万堂跡の近くにあるため池です。曽池ふれあい公園内にありますニコニコ

国道沿いから旧桃山町域を望む📷

境内は狭く、指定の駐車場はなく、奥にある民家への出入り口にもなっているため、路上駐車はしないでください🈲。近くにある曽池ふれあい公園の駐車場(仕切りなし。出入りを考えると2台程置けます)から歩いて行かれるほうが良いかと思いますニコニコ


この後、少し北のほうへ向かいましたウインク