おはようございます(´・ω・`)
一昨日の続きです
最寄りの場所から辿ります
橋本市清水の永楽寺の裏参道から市道を少し南へ行くと四つ角があり、左(南、「国城神社」の案内表示あり。道幅狭いです)に曲がってしばらく道なりに行き、次の分岐を右(南、案内表示あり)に曲がり、2つ目の分岐を右(南東、 神社の案内表示なし)に行きます。次の分岐を真っ直ぐ(西、案内表示なし。道幅さらに狭くなります)行き、左側に民家がある次の分岐を左(南、案内表示あり。坂道です)に曲がり、次の分岐を左(東、案内表示あり)に曲がり、次の分岐を右(東、神社の案内表示はなし)に行き、次の分岐を右(東、案内表示なし)に行きます。しばらく行くと左側に国城観光農園があり、その先の分岐を左(東、案内表示あり)に曲がり、次の分岐を真っ直ぐ(南、案内表示なし)行き、民家が2軒ある分岐を右→右(東→南、複数の案内表示あり)と曲がって山頂に向かって行くと左側に国城神社があります⛩️
要所要所に案内表示がありますので、基本迷うことはないですが、終始道幅が狭いので、 通行には注意が必要です⚠️
国城神社『境内由緒書』『紀伊続風土記』より
祭神 国城五社大明神、天照皇大神、八幡大菩薩、春日大明神、愛宕大明神
境内社 三平稲荷大明神、金刀比羅神社
旧伊都郡相賀荘東畑村に鎮座し、江戸時代後期の境内は東西4町15間(約463メートル)・南北1町半(約163メートル)。『紀伊続風土記』に「國城山の頂にあり、清水馬塲學文路兩畑村の産土神なり。五社祀神詳ならす。社殿深樹の中にありて其神さひたり。村民所藏の文書に此神は丹生川明神に由緒ある神なりとあり、村民雨乞の時は必當社に祈るといふ」と記されている。また、国城山についても『紀伊続風土記』に「東西兩村より各登り八町許清水村川邊より峰まて十八町といふ。山土皆紫色にて石も紫色の品あり。織田氏高野責の時山徒陣せし處といふ」と記されている。
由緒書によれば、この地域の開発者(国主)の神が国城山の頂の大樹に姿を変えて現れておられるのを信じ、神の鎮まる浄域として社を創建したのは大和時代である。伝承として、征夷大将軍坂上田村麻呂が勅命により奥州へ出征したが戦況思うに仕せず苦慮していたある夜「国城神社の山林に自生する竹を用いて矢竹とすれば大勝利を得る」と夢の御告げを受け、国城神社に参拝。20日間のお籠りをした後、竹を頂き、武器として勇躍出征し、大勝利を得たと云われる。霊験のあらたかさに驚いて神託に感謝し、お神楽を奉納したのが始まりとされる。
小祠⛩️
駐車場右隅 と境内社である三平稲荷大明神の鳥居手前右側にあります
三平稲荷大明神『紀伊続風土記』より
祭神 稲荷大明神3神、満平稲荷大明神、助六稲荷大明神
旧伊都郡相賀荘西畑村に鎮座し、『紀伊続風土記』に一文あり、「村中にあり」とだけ記されている。
先駆者の情報では、火振り道と呼ばれる道の途上にあったが、平成9年(1997年)に現在の地に遷坐し、境内にある金刀比羅神社も明治時代に西側の山から遷坐したそうです(『紀伊続風土記』では確認できず)。
三平稲荷大明神(一ノ鳥居)⛩️
山神⛩️
参道左側にあります
礎石だけ残された鳥居跡が5つ程あります
三平稲荷大明神(二ノ鳥居)⛩️
三平稲荷大明神(三ノ鳥居)⛩️
三平稲荷大明神(四ノ鳥居)⛩️
三平稲荷大明神(石灯籠)⛩️