櫻井寺(奈良県五條市須恵1丁目) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

こんにちは(´・ω・`)

和歌山の話題にしようと思って京奈和道に乗ったら、いつの間にか奈良に…(笑)

って言っても、奈良の玄関口なんですけどねニコニコ

JR和歌山線大和二見駅から国道24号を東へ走り、商励会通交差点の手前左側に櫻井寺があります月見

櫻井寺『五條観光協会』『Wikipedia』より

浄土宗の寺院。山号は潤生山。本尊は阿弥陀如来。

天暦年間(947年~957年)、桜井康成によって創建と云うが、詳しい由緒は分からず。昭和42年(1967年)に本堂を再建されて、現在に至る。

また、櫻井寺は天誅組ゆかりの寺であり、尊皇攘夷の気運が高まりつつあった文久3年(1863年)8月13日、孝明天皇が攘夷親征の勅命を発したことを聞いた元土佐藩士吉村寅太郎は公家中山忠光を主将に迎えて天誅組を結成。3日後、天皇の大和行幸に先んじて天領の五条(五條)代官所を襲撃して、代官鈴木源内を討ち取って火を放ち、櫻井寺に本陣を置いて五条を直轄地と称して「五条御政府」とした。しかし、翌日、政変が起きて攘夷主流派の長州藩が失脚し、天皇の大和行幸は中止となり、大義名分を失った天誅組に対し、幕府は諸藩に討伐を命じた。8月20日、天誅組は本陣を櫻井寺から高野山に近い天辻峠(奈良県五條市大塔町)に移し、十津川郷士の援軍を得て1000人規模の兵を率いて、反旗を翻した高取藩を攻撃するも敗退。その後も天辻峠を拠点に幕府軍1万を相手に善戦するが、9月14日に紀州藩・津藩が本陣を攻撃し、抗戦むなしく撤退を余儀なくされ、主力の十津川郷士の離反に伴い、19日に天誅組は解散となった。残党は鷲尾峠を抜けた鷲家口(奈良県東吉野村鷲家)で幕府軍と遭遇、吉村寅太郎を始めとする大半が討死した(丹生川上神社の近くに終焉之地の石碑がある)。最終的に生き残ったのは主将の中山忠光以下7名だけであったと云われる。


山門月見

鐘楼月見

天誅組首洗いの石手水鉢月見

討ち取った代官鈴木源内の首をこの手水鉢で洗ったと伝えられていますびっくり

山門の右側にありますニコニコ

本堂月見

由緒書月見

庫裡月見


天誅組本陣跡之碑月見

駐車場の入口にありますニコニコ

境内は狭く、西側は墓地になっています。駐車場は境内と国道挟んだ南側(一部は月極駐車場)にありますウインク

この後、少し和歌山のほうへ戻ります爆笑