昨日の続きです
丹生川上神社上社から国道169号を西へ走り、宮滝大橋北詰交差点を右(北東、途中道幅狭くなります)に曲がり、ひたすら道なりに行きます。吉野町の窪垣内交差点を右(南、奈良県道16号)に曲がり、再びひたすら道なりに行き、鷲家川を渡った先の三叉路を右(南東、奈良県道220号)に曲がり、道なりに行くと左側に丹生川上神社があります(途中、神社の看板がありますが、曲がらず真っ直ぐ行ったほうが行きやすいです)⛩️
祭神
(主祭神)罔象女神、伊邪奈岐命、伊邪奈美命
(東殿)大日◯貴尊、譽田別命、八意思兼命
(西殿)開化天皇、上筒男命、菅原道真、綿津見命、大国主命、事代主命
(副祀神)彌津波能売命、五十猛命
※◯は雨へんに四に女
合祀社 木霊神社、丹生神社(本宮山鎮座)、東照宮(蟻通橋北詰鎮座)
由緒書(上社の由緒と一部重なります)によれば、天武天皇4年(675年)の創建。「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」との神教により創祀されたのが始まりとされる。平安時代中期以降は祈雨の神として「二十二社」の1つに数えられた。祈雨には黒馬、止雨には白馬又は赤馬を献じ、朝廷の特に崇敬する重要な神社であったと云われる。室町時代の応仁の乱までは朝廷より雨乞い、雨止めの奉幣祈願が96回あったことが記録に記されている。しかし、戦国時代以降は祈願も途絶え、社号も「蟻通神社」と改称され、次第に丹生川上神社の所在がわからなくなってしまった。
明治時代に至り、丹生川上神社は何処かと云う調査が行われ、明治4年(1871年)に丹生村(下社)、明治29年(1896年)に川上村(上社)の各神社が官幣大社に列した。大正11年(1922年)、小川村出身の森口奈良吉氏の研究調査により、蟻通神社が丹生川上神社だと国に訴え、「丹生川上神社中社」として官幣大社に列することになった。以降、三社の社務所を中社に移して統括してきたが、戦後の神社制度変遷により、三社別々の神社となり、中社は「丹生川上神社」として登記されて、現在に至る。
境内にある石灯籠は国指定重要文化財、本殿は東吉野村指定文化財に指定されています。
鳥居⛩️
先客がいたので、またしても正面から撮り忘れ…
由緒書⛩️
手水舎⛩️
拝殿⛩️
本殿三社(国指定重要文化財)は、文政12年(1829年)の創建。詳しい由緒はわからず。
駐車場脇の社務所で頂くことが出来ます
吉野離宮跡⛩️
石碑は、昭和41年(1966年)の建立。元宮中顧問官井上通泰(1867年~1941年、儒者松岡操の三男で、弟に柳田國男(六男)がいる)が昭和4年(1929年)6月10日に現地を訪れて、「離宮の行幸のたびに珍しと蛙の声を聞こしめしけむ」と詠み、碑文には「萬葉の歌に多く詠まれ又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は雄略天皇が御◯(猟の旧字)なされた小牟漏岳の麓秋津野の野辺に宮柱太敷まして建てられてゐた。そこは丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。この対岸には大宮人の邸宅があって川を堰止め舟を浮かべ離宮に出仕のため朝な夕な競ふて渡った。今も邸宅の名残である御殿や軒先と云ふ地名が残ってゐる」と記されている。
この地には吉野行幸の離宮地説(『東吉野村観光協会』)があり、昭和10年(1935年)12月に国指定史跡に指定されたようですが、現在は指定を外れています
俳人原石鼎之句碑⛩️
境内社(木霊神社)⛩️
造営は、昭和57年(1982年)の造営。小川郷木材林産協同組合の市場開設30周年を記念して、和歌山市の伊太祁曽神社から勧請して造営されたと云う。
和歌山縁の神社とは思いもよりませんでした
裏参道(一番上の写真)にあります
県道に面して造営されています
境内は比較的広く、他に境内社が二社・茶室等があり、駐車場は境内にあります
この後、西のほうへ向かいました