清凉寺・八阪神社(橋本市高野口町小田) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

おはようございます(´・ω・`)

昨日の続きです(*'∀`*)v

小田神社から住宅街を南下すると清凉寺があります初詣2


清涼寺『境内由緒書』『紀伊続風土記』より

高野山真言宗の寺院。山号は嵯峨山。院号は吉祥院。紀州西国三十三観音霊場第十四番札所。本尊は薬師如来。

旧伊都郡官省符荘小田村にあり、『紀伊続風土記』によると、「嵯峨天皇や宇多天皇の高野御幸の際、弘法大師と共に薬師如来像を造った寺だと云う。古くは七堂伽藍が整備され、塔頭寺院も12坊を数える大寺であったが、度重なる戦乱で焼失して衰退。境内はわずかとなるも堂宇は残り、東方に「嵯峨ノ段」と呼ぶ地がある」と云う。

創建時期について、『清凉寺縁起』によれば、弘仁年間(810年~823年)に弘法大師(空海)によって創建。本堂・四門(南門は楼門)・多宝塔・不動堂・釈迦堂・経堂・観音堂等が建立された。慈尊院(九度山町慈尊院に在所)が高野参詣道の表玄関として栄えた頃、清凉寺は慈尊院と並んで参詣者を宿泊させる施設があったとされる。この名残は南北朝時代以降の伝承で、慈尊院の「女人高野」に対し、清凉寺は「口の高野」と呼ばれた。応永年間初め(1394年~1396年)の『検注帳』の官省符荘の項にも有力寺院としての記載がある。その後は衰退するが、万治年間(1650年~1660年)に仁和寺の宮門跡から山号・寺号・院号等の令旨が清凉寺に与えられ、その影響力はあったと推察される。


山門初詣2


鐘楼初詣2


庫裡初詣2


本堂初詣2


由緒書(『清凉寺縁起』)初詣2


石碑初詣2

あと、境内の奥に八阪神社があります(*'∀`*)v


八阪神社『境内由緒書』『紀伊続風土記』より

祭神    牛頭天王、稲荷大明神、辨才天

清凉寺の鎮守社。旧伊都郡官省符荘小田村の清凉寺の側に鎮座し、江戸時代後期の社号は「牛頭天王社」と記されている。

創建時期は不詳だが、当初は「祇園社」と記され、室町時代に完成した『清凉寺伽藍絵図』に記された本堂(当時の本堂は現在よりも東寄りに建立されていた)の北東に小祠四社の1つとして鎮座している。江戸時代に至り、延宝5年(1667年)の指出帳に「牛頭天王社、表三尺(約9センチ)裏三尺」とあり、この頃には現在の地に遷座していたと云う。


鳥居初詣2


本殿初詣2


由緒書初詣2


境内初詣2

境内は南側が墓地になっており、駐車場は山門右側にあり、7台程置けるかと思います好

霊場とは知らずに行きましたが、境内は整備されて綺麗でした(*'∀`*)v

この後、さらに東へと向かいましたキャッ☆