神光寺・明恵紀州遺跡(有田市星尾) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

おはようございますキャッ☆

予約記事です(笑)

では、昨日の続きをば…(*'∀`*)v

一度、国道42号線に戻って堤防沿いを走り、有田中央大橋南詰交差点を少し過ぎると左側に星尾の地名を記した標識があり、その向かいにある土手下への道、もしくは次の土手下への道から星尾地区へ行けます🚙💨

所々に神光寺の案内があるので駐車場まで迷うことはないですキャッ☆


神光寺『神光寺公式ホームページ』『有田市公式ホームページ』より

天台宗の寺院。山号は星尾山。

明恵上人のゆかりの寺として知られ、地頭の湯浅(保田)宗業が明恵のために建立した星尾寺(廃寺)の塔頭寺院6坊の1つと言われる。

明恵(1173年~1232年)
紀伊国在田郡石垣庄吉原村(現在の和歌山県有田川町歓喜寺中越)出身で、平重国と湯浅宗重の娘との間に産まれた。華厳宗中興の祖と言われる。

治承4年(1180年)、両親を失うと、翌年、高雄山神護寺の僧侶であった叔父の上覚(湯浅宗重の子)に師事して華厳宗を学んだ。後に出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受け、東大寺や仁和寺の高僧から教えを乞い、俗世界との縁を断つまで数多くの筆写を行った。俗縁後は紀伊国白木山に住んで3年に渡って修行して弟子と共に住し、大陸への旅も望んだが諸事情により断念。紀伊国を中心に修行を重ねた。

建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から山城国栂尾(現・京都市右京区梅ケ畑栂尾町)の地を与えられて生涯の地となる高山寺を開いた。栂尾が茶の産地となったのは明恵が栄西から頂いた茶の種を撒いたのが始まりとされる。高山寺においても華厳宗の教義を行い、鎌倉幕府執権北条泰時との親交や多くの公家や武家の信仰を受けた。寛喜4年(1232年)、享年60歳で死去。


山門ひらめき電球


閻魔堂ひらめき電球


庫裡ひらめき電球


本堂ひらめき電球


耳地蔵堂ひらめき電球


地蔵堂ひらめき電球
ここは歴代住職の墓所でもある。


龍神之碑ひらめき電球


大日堂ひらめき電球


金剛堂ひらめき電球


観音堂ひらめき電球


釈迦堂ひらめき電球

その他、護摩堂や不動堂、合祀社があります初詣2

また、寺院から西に少し行くと明恵紀州遺跡(国指定史跡)があります好






明恵紀州遺跡『説明板』より

この地は明恵が修禅研学のために結んだ草庵跡で、建仁3年(1203年)、明恵が31歳の時に春日明神の託宣を受けた場所だという。明恵没後、その由緒を示し高徳を偲んで、高弟の喜海らが嘉禎2年(1236年)に修行地7ヶ所と生誕地に木造の卒塔婆を建立して「明恵上人八所遺跡」と称した。現在の石造卒塔婆は康永3年(1334年)に建て替えられたものである。

星尾地区の南の山麓から中腹にかけて、かなりの広範囲に御堂が点在していますが、新築のものもあって時代の流れも感じます(*'∀`*)v

近くに神社もありましたが、時間の都合上スルー…またの機会としました(´-┃

明日は安養寺を紹介します🙇