【再更新&蔵出し】青洲の里《前編》華岡青洲顕彰記念公園・華岡家墓地~垣内池(紀の川市江川中) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

おはようございますニコニコ

本日早出ひらめき電球

5時半起き(ρ_-)ノぐぅぐぅ

明るいうちに帰れるからいいけどね(笑)

さて…

蔵出しひらめき電球

城跡が続いていますが少し道を逸れまして、前回少しだけ更新した青洲の里を蔵出しを交えて再アップしますニコニコ

出し惜しみは無しですニコニコ

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華岡青洲(1760年 ~ 1835年)

紀伊国那賀郡名手荘西野山村出身。
華岡直道の嫡子として生まれ、天明2年(1782年)に京へ出て、吉益南涯(漢方医、東洞の子)に学び、次いで大和見水(外科医、見水の師である伊良子道牛(山形藩士伊良子貞之助の子、オランダ人医師カスパル・シャムベンゲルに紅毛流外科を学び、東洋医学を織り交ぜた独自の医術(伊良子流)を確立させた)に師事して医学を学ぶ。3年後の天明5年(1785年)、帰郷して家督を継ぎ、全身麻酔薬の研究を始める。人体実験による母と妻の犠牲もあったが、麻酔薬「通散湯」(門外不出の秘術とされる)の開発に成功する。

享和2年(1802年)、紀州藩10代藩主徳川治宝に謁見して帯刀を許され、享和4年(1804年)に大和国宇智郡五條村の女性の乳癌摘出手術に成功させ、華岡青洲の名は一気に全国的に広まった。

文化10年(1813年)、紀州藩小普請医師格勝手掛に任じられ、小普請御医師を経て、天保4年(1833年)に奥医師格となる。その2年後の天保6年(1835年)、死去。享年76歳。

人間の体をイメージして造ったとされる記念公園は青洲の里の北側にあり、華岡家墓地に隣接していますニコニコ

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通路は脊髄、柱は肋骨でしょうかニコニコ

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青洲自作の漢詩の碑ひらめき電球
「竹屋蕭然烏雀喧
風光自適臥寒村
唯思起死回生術
何望軽装肥馬門」

自分は何の富貴栄達も望まない
自然に恵まれた田舎に住んでいるが、
ひたすら思うことは瀕死の病人を回生させる医術の奥義を極めたい、ということのみである
金を儲けて絹の着物を着たい、立派な馬に乗りたいとは思わない
日々、患者の痛みや苦しみに心を痛め、
どのようにして患者を救えばよいのか、何とかならないものか
そればかりを思う毎日である

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一番奥の2つの石は青洲の母於継、妻の加恵(実家は旧名手宿本陣妹背家)を象徴しているというニコニコ

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案内板ひらめき電球

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記念公園の入り口から右側にある階段を上がると華岡家墓地へ行くことが出来ます長音記号1走る人

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華岡家墓地は青洲の父直道を筆頭に一族34人の墓が安置されています(盆でしたので墓の撮影は控えましたニコニコ)。青洲の墓碑は和歌山県指定文化財に指定されています得意げ

また、墓地には後世の人々によって建てられた石碑がありますニコニコ

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墓誌銘碑ひらめき電球

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仁井田好古(紀州藩儒学者で、紀伊続風土記の編纂に携わる)之碑ひらめき電球

その他、青洲は医学だけではなく溜池の開拓も行っており、記念公園の北側にある垣内(かいと)池は青洲が旱魃や飢饉に苦しむ農民のために私財を投じて開拓したと伝わる。文化6年(1809年)に完成。

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青洲の碑ひらめき電球

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結構広い池でしたニコニコ

明日は青洲の診療所である春林軒を更新しますニコニコ

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