【画像一部差替+由緒追記】竈山神社(和歌山市和田) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

おはようございますニコニコ

昨日昼からの研修はものすご~く眠たかった得意げぐぅぐぅ

事例の演習とかあればもっと良かったのに…県の研修だから参加することに意義があるんですけどねニコニコ

さて…

今日の蔵出しはもう何回も行っている竈山神社。まともに「散策」として行ったのは去年の春ですニコニコ

【令和2年10月3日画像差替】
竈山神社家『和歌山県神社庁公式サイト(一部抜粋)』『紀伊続風土記』『Wikipedia(公式サイトの解説文が乏しかったため)』より

祭神
(本殿)彦五瀬命 
(左脇殿)神日本磐余彦命 御毛入沼命 稲飯命 
(右脇殿)高倉下命 可美眞手命 天日方竒日方命 天種子命 天富命 道臣命 大久米命 椎根津彦命 頭八咫烏命

合祀社 火結神(静火神社)、子安神社、青葉神

旧名草郡神宮下郷和田村に鎮座し、江戸時代後期の境内は南北1町半餘(約163メートル)・南北2町(約218メートル)。『紀伊続風土記』に一文あり、「延喜式神名帳名草郡竈山神社、本國神名帳名草郡從四位上竈山神」とだけ記されている。

格式は官幣大社。

彦五瀬命は弟たちとともに東征に向かったが難波の白肩津での長髄彦との戦闘で負傷した。太陽に向って戦うのは良くないとして東から回り込むために一行は南下したが、その傷が元で紀国の男之水門に着いたところで彦五瀬命は亡くなった。紀伊国竈山に墓が作られたと『古事記』にある。『紀伊続風土紀』によれば当所がその竈山の地であり、墓が作られてすぐに側に神社が作られたとある。

『延喜式神名帳』では「紀伊国名草郡 竈山神社」と記載され、小社に列している。「釜山神社神主職宛行状」(日前宮文書)によれば、永徳元年(1381年)、紀国造家によって鵜飼新五郎が神主に任ぜられた。以降、鵜飼家が神職を世襲していたと見られる。

天正13年(1585年)、羽柴秀吉の紀州攻めにより、社宝・古文書を焼失し、社領も奪われて荒廃する。慶長5年(1600年)、紀伊国に入国した浅野幸長が小祠を再建し、寛文9年(1669年)、徳川頼宣が社殿が再建したが寺社奉行の支配下に置かれ、氏子も社領もなく衰微していく。明治に入り、宮内省管轄の彦五瀬命墓と竈山神社は正式に区分され近代社格制度のもとで、明治14年(1881年)に村社に列格し、神武天皇の兄を祀るという由緒をもって社殿が整備され、明治18年(1885年)には官幣中社、大正4年(1915年)にはついに官幣大社に進むという異例の昇格をした。村社から官幣大社まで昇格したのは当神社が唯一の例である。現在は神社本庁の別表神社となっている。


鳥居⛩️

参道⛩️

石碑⛩️

拝殿に向かって進むと森の中に石碑がありますが、ロープ内は立入禁止🈲になっていますニコニコ

劒橋⛩️

架橋は昭和10年4月と記されている。神社の外堀を流れる竈山川と繋がっており、渡ると付設保育園があります。

手水舎⛩️

神門⛩️

拝殿⛩️

本殿⛩️

境内社⛩️

社殿(拝殿左隣)⛩️


裏門⛩️

境内社(青葉神社)⛩️

車のお祓いはこの青葉神社の社前で行いますニコニコ

社務所⛩️

社殿(社務所右隣)⛩️

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土俵?ひらめき電球

拝殿の北西にあります。土俵かと思ったのですが…何でしょうか?。

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境内西側を占めるグラウンドひらめき電球

保育園の園児たちが運動会をしたり、少年野球等でも使われています。この日は杖をついたおじいさんがリハビリのためでしょうか、何周も歩いておられました。

ただ、桜が満開だったのはよく覚えています桜

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今日も天候が悪いので寄り道は出来なさそうです(仕事をしろってことでしょうかにひひ

あと残っている蔵出しは藤白神社、根来寺、粉河寺(産土神社除く)、一楽寺(本堂の画像がないので再訪予定)、天妃山(山頂の画像が不鮮明なので再訪予定)ぐらいでしょうかニコニコ

年末の散策予定は熊野古道(松坂王子~菩提房王子)、蔵王寺(真言宗御室派)、加太付近(淡嶋を除く注意)でしょうか得意げ

初詣(=初散策)はどこでしようか迷ってますけどね(会社の初詣(えべっさんを兼ねています)は毎年松江春日神社です)ニコニコ

市内全部行ったら竈山に戻るでしょうけど(笑)