We will never forget! ナイン・イレブン | 英語ができたらいいなと思ったら、中学英語をもう一度

英語ができたらいいなと思ったら、中学英語をもう一度

英語学習コーチYukikoです。
英語に関するお悩み解決のお手伝いをします。
住んでいたアメリカの文化や経験などについても書いています。

英語学習コーチYukikoです。

 

アメリカではハリケーンIrmaがフロリダに直撃し洪水で大変なことになっていますね。

 

9月11日といえば9・11(英語ではナイン・イレブンと言います)のテロの攻撃を受けた日です。

 

もう16年になります。

 

今年も亡くなった方々の追悼の式典が行われました。

 


 

 

 

当時私たち家族はNY郊外に住んでいましたので、

 

当日はもちろんその後しばらくもこの事件に関することで生活が変わりました。

 

今日は、16年前の9月11日NY郊外はどうだったか生活の一部を書いてみたいと思います。

 

この日は息子の幼稚園最初の日でした。

 

自宅の前までバスがいつものように8時頃来て、息子をバスに乗せた後、

 

まだ車を運転できない新しく赴任してきた知り合いをシティバンクまで連れて行くことになっていました。

 

 

銀行について中に入り列に並んでいると、前に並んでいる数人が「…らしい。ラジオで言ってた。」とか

 

話しているのが聞こえました。

 

そのしゃべっていた人たちは次々と順番が来て、私はその知り合いとなんてことない会話をしながら何とな

 

く胸騒ぎがしました。

 

そのうちに呼ばれ、カウンターに行くと銀行員は全くいつもと変わりない様子で処理を進めてくれました。

 

何でもなかったかのかな…と思いながら知り合いを家まで送り届け、私は車のラジオをつけて

 

英語を習っていた先生のお宅に30分ほど遅れて向かいました。

 

車のラジオからは、アナウンサーの慌てた不安そうな声で「ワールドトレードセンターのビルに飛行機が

 

crashしました。詳しいことはわかりません。」とそれを繰り返すのみで、

 

あとは確かクラシックがずっと流れていたと思います。

 

私はその時、御巣鷹山でJAL123便が墜落したこと事を思い出しました。

 

JALが墜落したころ夜だったと記憶していますが、当時聞いていたFEN(現在のAFN)からはずーっとクラ

 

シック音楽が流れていたのです。どうしたのかなと不思議に思っていましたが、

 

あとになって思うと事故のために放送どころではなかったのかなと思います。

 

そんなこともあり、放送が中断してクラシックが流れていると、何か起きたのではないか?と思います。

 

 

そんなわけで、遅れて先生のお宅に到着したら、先生ともう一人の生徒(日本人)は

 

食い入るようにテレビを見ていました。

 

テレビではワールドトレードセンターの生中継で、既に2機の飛行機がビルに激突したあとでした。

 

アメリカ人の先生にいったい何が起きているのか質問しても、だれも何もその時点ではわからず

 

ただただテレビの映像を見つめるのみでした。

 

そうこうするうちに北棟のビルが崩れ、テレビの前にいた三人は言葉も出ませんでした。

 

 

 

そんなレッスンにならない状態でクラスが終わり、自宅に帰るとなんと日本の両親からの留守番電話がいくつも入っていたのです。

 

そのあと、両親に電話して、アメリカでニュースを見ながら日本で報道されているニュースと情報があっているか確認などしました。

 

当時の日本の報道では便名と飛んでいる飛行機の数など、数字の取り違えのミスがあったことを記憶しています。

 

幸い夫は勤務場所が離れており災難は免れましたが、近所に住む友人のご主人の会社はまさにそのビルに入っていたので、直接家に行って確認しました。

「とにかく生きているから。」と本人から連絡があった言っていたのが印象的でした。

 

 

その日の夜はとても冷え込んで激しい雷雨でした。

 

飛行機の攻撃音に聞こえるくらい激しい雷の音で、ベッドの中で本当に怖かったです。

 

万が一生き埋めになって一命を取り留めた人も、この天気と気温で生き残るのはむずかしい

 

そのあとのアメリカの変わりようはもうただただ驚くばかりでした。

 

愛国精神をアピールするため、ほとんどの車に星条旗が取り付けられたり、

 

星条旗のStickerを貼った車がずいぶん増えたというわけです。



いろいろな人種がいる国家で、一致団結”Unite”を掲げたそのころは、少し怖いくらいでした。

 

お隣の警察官も崩れたビルの下敷きになり、遺体が見つかるまでの一か月間、奥様、二人の子供、彼の両親の悲しみを間近で見ていたのでその気持ちも良くわかります。

 

その間”UN”と書かれた国連の車が何度も訪れていました。

 

警察官ということもあり、国からかなりの金額が払われたという話も聞きました。

 

その後、一度お邪魔したことがありますが、近所の素敵なおうちに引っ越しされ、今もテロの犠牲者としていろいろなサポートを受けて生活されているのではないかと思います。

 

We will never forget!

 

今日はここまで。

 

 

今日も最後までお読みいただき有難うございました。