「箱を持っている」①

 

 箱を持っていた。

 白くて30cmくらい、そんなに重くはない。

 朝、ベッドから起き上がったら持っていた。

 昨夜は何も持たずに眠ったはずだ。

 ベッド横の小さなチェストに置こうとしたが、置けない。

「あれ」

 何度も置こうとしたが、置けない。

 それどころかか接着しているかのように左手にくっついた。

 右手で引っ張ると、右手にくっついた。

 ベッドを降り、立ち上がったまま何度も上下に手を振った。

 どれだけ激しく振っても落ちない。

 慌てて階段を降り、キッチンに飛び込んだ。

「ねえ、これ見てよ!」

 まな板でサクサク切っていた母が、手を止め振り向く。

 その右手には包丁と、黄色い箱。

 包丁は右手にしっかり握られているから、黄色い箱は親指の上に乗っている。

 わたしの箱よりは小さく、10cmくらい。

「はあ!?」

「なに」

「なにそれ」

「え?」

「箱箱!」

「はこ?どれ」

「それそれ、右手!」

「これは包丁」

「知ってるよ、その横!いや上!」

「なに言ってんの」

「親指の付け根!くっついてんじゃん!」

「はあ?」

 母はいぶかしげに左手で右手親指の付け根をさすった。

 さすった手は、箱を突き抜けた。

「あ!」

「寝ぼけてんじゃないの?顔洗ってきなさいよ」

 と、左手で右手の甲をぱしっと叩いた。

 それに驚いたかのように、箱は母の腕を滑るようにのぼり、左肩に乗った。

「うそ!」

「うそじゃないよ。寝ぼけてんだよ」

 黄色い箱を肩に乗せたまま、母は手際よくトマトを切る。

 確かに寝ぼけているのかもしれない。

 洗面所に行って鏡を見ると、やはり、箱を持っていた。

 顔を洗ってやる、と両手を水に差し出すと、箱は背中に移動した。

 絶対に身体から離れていかない。

 意識を削ぎ落とすように顔を洗い、タオルで強く目を押さえた。

 それをゆっくり下にずらし、また鏡を見る。

 身体をひねり、背中を映す。

 箱は、背中に存在している。

 当たり前のように。

 

 

小説「箱を持っている」②

 

 外に出て、息を呑んだ。

 道行く人すべてが箱を持っていた。

 それぞれ色も大きさも違う。

 青、赤、黒、縞々、ドット、格子柄。持っているだけでなく、肩や頭に乗せている人、肘にくっつけている人もいる。

 誰もそれに気づいていない。

 呆然と見回しながら歩み続けると、いつの間にか待ち合わせのデパート前まで来ていた。

 人で混み合っている。箱も混み合っている。

 わたしはどうなってしまったのか。

 いや、世界がどうにかなってしまったのか。

「ごめんごめん」

 と走り寄ってきたサキコは、5cmくらいの淡いピンクの箱をひとつずつ、両肩に乗せていた。

 サキコがわたしの顔を覗き込む。

「どうした?」

「そのパターンもありか…」

「は?」

 わたしはサキコの腕を引っ張った。

「あそこ、入ろう」

「え、今日買い物でしょ、ちょっと!」

 それに答えもせず、徒歩数十秒のカフェに入った。

 若い女性の店員さんは腕に10cmくらいの紫の箱。隣席のスーツの男性は50cm以上ありそうな白黒のチェック柄を右手に持ったまま電話している。

 ホットのラテを頼み、一口すすって深呼吸した。サキコがその様子に苦笑した。

「なになに、どうしたの」

「……」

「険しい顔しちゃって」

「…バカにしないで聞いて欲しいんだけど」

「話によるけど」

 わたしは左手を差し出した。白い箱がさも当然のように乗っている。

「これ、見える?」

「…手」

「箱」

「手でしょ」

「手の上」

「手の上には何もないじゃん、空気くらいしか」

「白い箱乗ってるでしょ」

「え、なんの心理テスト?」

 信じるわけもないが、言うしかない。

「わたしには見えないものが見えて、しかもそれは箱で、世の中の全員が箱を持っていてサキコもピンクの箱を肩に乗せてるの、しかも両肩に」

「……はあ?」

「あー、もう何なのこれ」

と、思わず両手で顔を覆った。その瞬間白い箱は膝の上に移動した。

「ピンクの箱?」

「それ、その肩」

「無いよ」

「わたしには見えるの!」

「うそお」

「本気で言ってるんだよ!」

「分かった分かった。もうちょい教えてみて」

「…朝起きたら箱を持ってたの」

 両手に乗せた箱をサキコに突き出した。

「どんな箱」

「真っ白な。そしたらお母さんも持ってて、外出たら他の人もみんな持ってたの。あんたも」

「で、それはカナミにしか見えないと」

「うん」

 サキコが右手で左肩を触ると箱が背中に移動した。

「ここにあると」

「いまは背中。移動するの」

「どのへん?」

 と、背中に手を回す。

「あ、いま戻った。肩に。左肩!」

「…うん。まあ…分かった」

「え、分かってくれるの!」

「いや分かんないけど、分かったことにする」

「サキコ…」

「だってやばい薬とかやってないよね」

「風邪薬ですら半年以上飲んでない」

「最近おかしくなるほどショックなことあったわけじゃないよね」

「これだよ!これがいちばんショック」

 サキコはちょっと考えて、口を開いた。

「まあ、信じるよ」

 わたしは両手で彼女の両手を強く握り、上下にぶんぶんと振りまくった。握る瞬間、白箱は二の腕に移動した。

「ありがと、ありがと!」

 

 

小説「箱を持っている」③

 

「さて、問題はどうしてこういうことになったか、だよね」

 サキコが一端の探偵のような顔で、自らの顎を人差し指で撫でた。

 わたしたちは様々な推測をした。「病気の可能性もあるよ」と心強い友人は心配してくれた。けれど自分にはその意識はない。「病気って無意識に進行するからね」友人は今度は医者のように眉根を寄せて腕を組んだ。

「やっぱり病院には行ってみたほうがいいんじゃない?」

「分かった。そうする」

 こう答えてはみたものの行くつもりはなかった。なぜか病気じゃない自信があった。それでなくとも病院というのは、ひとに「行ってみる」と伝えてからすぐには腰の上がらない場所だ。

 わたしたちは、『箱を持ってない人』が世の中に存在するかもしれないこと、箱が見えない時間帯や場所があるかもしれないことなど様々な推測をして、ひとまず落ち着いた。椅子の背にもたれかかり、ひと息つく。カフェラテはすっかりぬるくなっていたが、推理に熱中した結果なのか、冬なのに背中にうっすら汗をかいていた。

「ところでカナミってさ、ユイカ覚えてるよね?」

 トイレから戻ったサキコがそう聞いてきた。

「ユイカって、あの高校んとき一緒だった?」

「そう。あの、ユイカ。本庄ユイカ」

 サキコの「あの」には含みがある。

「ユイカがどうしたの?」

「歌手デビューするってお知らせ来たんだよ。え、カナミんとこにも来てない?」

「知らない。いつ頃?」

「昨日。あれ。カナミには絶対来てると思ったんだけどな」

「どうして」

「ユイカってカナミ意識してたじゃん」

「え、そうかな」

「うん。だって同じ大学狙ってたし、歌もほら、文化祭の歌唱コンテスト、あれでカナミが一位取っちゃったもんだから、あれからやたら歌に固執しちゃって」

 サキコは笑いながら、すっかり薄茶色の水になってしまったアイスラテをストローで吸い上げた。

「そうだったっけ」

「カナミはそういうの無頓着だからね、そういう、嫉妬みたいなの」

「嫉妬…」

「カナミは意識してなくても、向こうがしてるんだよ」

 正直わたしは『本庄ユイカ』のことをあまり覚えていない。8年前。高校のとき、サキコやそのまわりの2、3人が「ほら、またカナミのこと意識してるよ」と面白そうに言っていたのを覚えてはいるが、意識されているのかよく分からなかった。はっきりと感じていたのは、わたしと正反対のタイプだろうな、ということ。外交的と内向的、分類できるくらい違ったと思う。もちろんわたしは後者だ。

「ミナミもルリもお知らせ来たって」

 と、サキコに見せて貰ったスマホにはこんな文章があった。

 

 【本庄ユイカ、歌手デビュー決定!来たる9月15日金曜日にデビュー単独ライブ開催決定! 期待の新人・本庄ユイカ誕生の瞬間をお見逃しなく!ご来場の方、もれなくユイカと握手できます!そしてデビューにともない、公式オンラインサロン『YOU ikka!』が開設されました。こちらにプレミアム登録し『ikkar』になっていただくと、これからの本庄ユイカの活動全てを見逃さずに追うことができます。ユイカはあなたのそばにいます♪】

 

「これ全部自分でつくってるんだよぉ」

 このサキコの「よぉ」には面白そうな悪そうなことを話すときのニュアンスが存分にこめられている。

「どうして分かるの」

「そんなの見りゃ分かるじゃーん」

 「じゃーん」も同様だ。どのあたりを見れば分かるのかは分からなかったが、こんな自意識の強い文章は本人作成に違いないことと、事務所名がどこにも明記されていないことで一目瞭然だとサキコは断言した。

「あと、これが添付されてた」

 スマホで確認したその顔写真に高校時代のユイカの面影はなかった。

 わたしの覚えているユイカより、色が白く目がぱっちりしていて、顎のラインがシャープだ。両肩が華奢で折れてしまいそうに見える。

「…面影ない」

「たぶんめっちゃ加工してるね。それか整形。それかどっちも」

「まあ、加工はしてるんだろうね」

「当たり前じゃん。もともとの売りは垂れ目で童顔ってだけなんだから」

 サキコは昔もユイカに対してこのフレーズを使っていた。『垂れ目で童顔ってだけ』。

「この歌手デビューの前からさ、ローカルのニュースにちょっと映ったとか、有名人の誰々さんに会って褒められたとか、たまに連絡来てたよ。ずっと無視してたけど」

「そうなんだね」

「カナミに連絡ないなんて意外。もう勝てないと思ったのかな」

「勝ち負けとかじゃないよね」

「カナミは気にしなさすぎなんだよ」

「まあ、そうなのかもね。…ユイカってどんな箱なんだろうなあ」

「ラメラメだね。それから黄金」

それからしばらくとりとめもなく話をして別れた。箱さえなければただの日常だ。

 夕方に帰宅すると、キッチンのテーブルの上に自分宛の封筒があるのに気づいた。白い高級そうな紙質で、差出人は『YOU Ikka!』。開くと『ご招待 本庄ユイカ デビューイベントのお知らせ』という見出しの手紙が入っていた。手紙を握るわたしの手のちょっと上、手首あたりに箱は止まり、わたしは箱と一緒に目を通しているような感覚になった。

 

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