1966年の静岡一家4人殺害事件で死刑判決を受けていた袴田巌さんに対して、静岡地裁は9月26日、無罪の判決を言い渡しました。これに対して検察は、10月9日に控訴の権利を放棄する手続きを行い、袴田さんの無罪が確定しました。

 

 この事件では、味噌樽から発見された5点の衣類、袴田さんの実家から見つかったその衣類の切れ端、自白調書の3点が証拠とされていました。しかし静岡地裁は、いずれも捜査機関による捏造の疑いがあると指摘しています。

 捜査機関の関係者からは、「(捏造は)ありえない」「納得がいかない」といった声も出ています(読売新聞24.9.27)。もし捏造が事実であったとしても、捜査関係者全員が共謀し、証拠をでっち上げたわけではないでしょう。一部の捜査員が行ったと考えるのが妥当だといえます。ただ、袴田さんが有罪であるというバイアスを大方の捜査関係者が共有していたのは確かでしょう。そうした思い込みを裏付ける「証拠」を得るべく、一部の人間が暴走した結果が今回の冤罪事件に繋がったのかもしれません。

 

 組織内でなんらかのバイアスが働いて、全体が誤った方向へ進んでしまうケースは珍しくありません。その代表例が科学研究の分野で見られます。

 科学研究の世界では、バイアスに陥らないよう心掛けることが常々訴えられています。なかでも「確証バイアス」は、研究者が特にはまりやすいバイアスの一つです。これは、自分が正しいと信じる仮説と合致する情報ばかりを集め、仮説に反する情報を避けてしまう傾向・心理現象を指します。自分の立てた仮説が正しいというバイアスにとらわれてしまうと、仮説に合致するデータには飛びつく一方で、仮説に反するデータからは目を背けてしまいます。さらには、仮説に沿わないデータを改ざんしたり、仮説の裏付けとなるデータを捏造したりといった不正に手を染めてしまう場合もあります。

 グループで研究を行う場合も同様です。グループ内の一部の研究者が実験結果に改ざんや捏造を行っていたとしても、それが仮説と合致するものであれば、他の研究者は疑問を挟むことなく受け入れてしまうかもしれません。逆に、仮説に反する結果が提示されれば、グループ内で疑問の声が高まるでしょう。たとえそれが適正に行われた実験結果であったとしても。

 

 袴田事件の捜査経緯を見ると、事件の真相を解明するという本来の目的が、被疑者を真犯人に仕立て上げるという目的にすり替わってしまっていたことがわかります。捜査機関内で、袴田さんが有罪であるという確証バイアスが働いていたのは間違いないでしょう。

 そうした状況下では、組織内の一部の者が証拠を捏造していたとしても、他の人たちから疑問の声が上がりにくく、結果的にその「証拠」が事実として受け入れられていきます。これによって、捏造された証拠が有罪を裏付けるものであるという信念が組織内でより強固なものとなり、「真犯人は別にいるのでは?」といった疑問はどんどん脇へ追いやられていきます。こうした悪しきループにはまってしまうと、組織内部の人間が事態を客観的に見ることは難しくなります。

 

 先のコメントのように、捜査機関内部の人たちの多くは、自分たちの組織が証拠を捏造することなど「ありえない」と思っているでしょう。世間一般の人たちも、捜査機関がそんなことをするはずがないと思うかもしれません。しかし、人間はある種のバイアスに陥ると、罪悪感を持たずに嘘をつくことがあります。真相解明に尽力する捜査関係者も例外ではありません。

 今回のケースが、捜査関係者も人間であるという当たり前の前提に立ち返って、司法制度の改革が進められることを望みたいところです。

 

われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。

 

 これは、アメリカのジャーナリスト、ウォルター・リップマン(1889-1974)の言葉です(『世論(上)』岩波文庫P.111)。名言集などでよく取り上げられているので、ご存じの方も多いでしょう。リップマンは「ステレオタイプ」という用語を生み出した人物としても知られますが、冒頭の言葉はそれについて論じた一節です。

 リップマンは上記に限らず、含蓄に富む言葉を多く遺しています。そのいくつかを紹介しましょう。

 

どんな人でも、自分の経験したことのない出来事については、自分の思い描いているそのイメージが喚起する感情しかもつことはできない。(上P.27)

 

たいていの場合、作り事もほとんどある程度まで真実といいうるものを含んでおり、その信憑性の度合いを考慮にいれさえすれば,虚構も人を誤らせるものではない。(上P.30)

 

それぞれの人間は直接に得た確かな知識に基づいてではなくて、自分でつくり上げたイメージ、もしくは与えられたイメージに基づいて物事を行なっていると想定しなければならない。(上P.42)

 

人間が自由に行使できる言葉の数は、人間が表現しようとする概念の数より少ない。(上P.94)

 

われわれの意見は、他人による報告と自分が想像できるものから、あれこれつなぎ合わせてできたものにならざるをえない。(上P.109)

 

われわれは自分のよく知っている類型を指し示す一つの特徴を人びとの中に見つけ出し、頭に入れてもち歩いているさまざまのステレオタイプによって、その人物像の残りを埋めるのである。(上P.123)

 

あるステレオタイプの体系がしっかりと定着しているとき、われわれの注意はそうしたステレオタイプを支持するような諸事実にひかれ、それと矛盾するものからは離れる。(上P.161)

 

実際の世の中では、証拠の出るずっと以前に、そうした判断が真の判断とされることが多い。(上P.163)

 

現代世界において、道徳規範のいかなる相違にもましてはるかに深刻な問題は、その規範が適用される諸事実の捉え方の相違である。(上P.165)

 

公共の事柄への意見をまとめる際には、自分の目で見えるよりももっと広い空間を、感じられるよりももっと長い時間を思い描かねばならない。(上P.201)

 

大衆が読むのはニュース本体ではなく、いかなる行動方針をとるべきかを暗示する気配に包まれたニュースである。大衆が耳にする報道は、事実そのままの客観性を備えたものではなく、すでにある一定の行動型に合わせてステレオタイプ化された報道である。(下P.77)

 

ほとんどの指導者は辞めることをいやがる。ほとんどの指導者は、現状は悪いに違いないが、ほかの指導者ならこれより悪くはしないだろうと信じることはむずかしい。(下P.80)

 

市民は電話、電車、自動車、娯楽の料金を支払う。しかしニュースのためには積極的に料金を支払おうとしない。(下P.172)

 

 上記はいずれも『世論』に記された言葉です。この著作が刊行されたのは1922年。約100年前の作品ですが、そこに書かれた言葉の多くは、今なお色褪せていません。「ジャーナリズム論の古典」とも称される本書のなかには、後に認知科学・心理学の分野で実証された「真理」も多く含まれています。そうした「真理」に、リップマンは直観的に辿り着いていたわけです。

 「20世紀最高のジャーナリスト」とも評されるリップマンが亡くなって今年で50年。今日の政治、社会を読み解く上でも非常に有効な彼の著作に、今一度注目したいところです。

 

 

 

 ホロコーストを題材にした映画「関心領域」が話題を呼んでいます。2023年のカンヌ国際映画祭グランプリをはじめ、数々の映画賞を受賞したことで、日本でも一般公開される前から注目されていました。

 

 本作には、アウシュビッツ強制収容所が出てきます。しかし、中の様子は一切描かれません。映し出されるのは、収容所の塀と、それに隣接する家で幸せに暮らす家族の様子だけ。収容所内の凄惨な現実は、音を中心とする間接的な要素のみで表現されています。画面には出てこない収容所内部の様子と、淡々と描かれる家族の日常とのギャップが、観る者に不気味さや違和感を抱かせます。さらに、各所に見られる独特の演出が相俟って、強い不快感を与えます。その不快感は、エンドロールが終わるまで消えません。気持ち悪いという言葉が当てはまる作品ではありますが、観る価値は大いにあります。

 

 監督のジョナサン・グレイザー氏は、本作について次のように語っています。

「壁の向こうで起こっていることに対する彼らの無関心、世界の恐怖を切り離して無視することは、自身の贅沢と安定を保つためであり、そういった傾向は、わたしたち自身に共通するものでもあるわけです。それこそが本作を今日の観客に関連づける鍵でした」(The New York Times Style Magazine:Japan  https://www.tjapan.jp/entertainment/17699543

 

 壁の向こうで起きていることを無視する傾向は、決して「彼ら」だけのものでなく、「わたしたち」にも共通する。この点こそが、本作が現代人に突き付ける命題と言えるでしょう。もちろん今日の日本人も「わたしたち」に含まれます。

 

 現在の国際社会に目を向けると、各地に凄惨な現実が存在することがわかります。そのなかで、ウクライナやパレスチナなど、境界を越えて繰り広げられる紛争は「国際問題」として扱われ、メディアも大きく報じています。一方、国境の内部で起きている紛争は「国内問題」とみなされ、あまり関心が持たれません。国軍と民主派勢力が争うミャンマー、国軍と準軍事組織RSFによる内戦が続くスーダン、ギャングが実権を握り無政府状態に陥っているハイチ、100万人以上のウイグル人が強制収容所に送り込まれているとされる中国新疆ウイグル自治区……。これらの出来事が起きている場所は、まさに「壁」の向こう側です。その壁を隔てた先からは、少ないながらも音が届いています。それに関心を向けるか否かが、今問われています。

 

 

 

 日本の研究者による不正が後を絶ちません。ここ数ヵ月間の報道を見ても、早稲田大学、熊本大学、日本大学、北海道大学、二松学舎大学、山口大学、筑波大学など、多くの研究機関で不正が発覚していることがわかります。もちろん、これは今日の学術界に限った問題というわけではありません。研究不正は昔から繰り返されてきました。

 歴史をひもとけば、古今東西に見られる出来事であったことが分かります。「近代科学の父」とも称されるガリレオ・ガリレイも、「万有引力の法則」の発見などで知られるアイザック・ニュートンも、「遺伝学の祖」とも言われるグレゴール・メンデルも、研究不正をしていた疑いが持たれています。

 

 もちろん、歴史上の偉人がやっていたから不正が許されるという話ではありません。科学本来の目的は「真理の探究」にあります。不正を犯して何らかの「成果」を得たとしても、真理に近づいたことにはなりません。

しかし一方で、研究者として生きていくためには評価を得ることが不可欠です。尊敬や名誉を得たいという、個人的な思いを満たすためだけではありません。研究者としてのポストを獲得し、それを維持しながら研究を続ける資金を得るために必要なのです。

 科学本来の目的と、評価を得るという目的を同時に目指そうとすると、時に葛藤が生じます。そして、両者を天秤に掛けたとき、後者のほうが現実的な問題として重視されてしまう場合があります。これが不正に手を染める誘因となるのです。

 

 研究者を不正に誘う要因として、「出版バイアス」という問題も挙げられます。これは、肯定的な結果が出た研究のほうが、否定的な結果が出た研究よりも出版・公表されやすいというバイアスを指します。

 研究成果を学術誌に掲載してもらうため、研究者はできれば肯定的な結果が得られることを願います。しかし、当然ながら常に想定した通りの結果が出るとは限りません。思うように結果を出せないことがプレッシャーとなり、捏造や改ざんといった不正へと導かれていくのです。

 物理学者で科学ジャーナリストのデヴィッド・ロバート・グライムス氏は、「出版バイアス」について次のように述べています。

 

最近の科学業界は「発表しないなら滅びろ」病に感染している。じゅうぶんに肯定的な結果を発表しない学者には資金が集まらないのだ――質より量に報酬が集まるこの仕組みが、私たちすべてを脅かしている。(『まどわされない思考――非論理的な社会を批判的思考で生き抜くために』P.285)

 

 研究界には、こうした構造的な問題があるというのも事実です。とはいえ、不正は不正です。本来目指すべき目的から外れていることは言うまでもありません。真理の探究という目的を達成するためには、当然ながら、事実を正確に記す必要があります。

 

 ところで、論文の不正がどれくらいはびこっているかを知るには、「Retraction Watch(撤回監視)」https://retractionwatch.com というウェブサイトが参考になります。このサイトを見ると、多くの学術論文が発表後に撤回されていることが分かります。ここには、論文撤回数のランキングまで掲載されています。そのトップ10のうち、実に半数を日本人研究者が占めているのです。上位30人で見ても、日本人研究者は7人がランキングされています。

 毎年、ノーベル賞の受賞者が発表される時期になると、日本人研究者の「成果」に注目が集まりますが、その一方で、日本の学術界が「不正」の頻発という難題を抱えている事実も知っておいた方がいいでしょう。

 

 ※『執筆開始、その前に ―「悪文」を避けるための考え方―』P.20-24参照

 

 

 アメリカの心理学者のリー・ロス氏は、20年ほど前にイスラエルである調査を行っています。調査では、イスラエル人被験者に対して、和平に関する2つの提案文書が渡されました。一方はイスラエル人から、もう一方はパレスチナ人から提示されたものです。

 周知のとおり、イスラエルとパレスチナは長く対立が続いています。被験者の半数には、どちら側の人が作成した提案であるのかが正しく伝えられました。残りの半数には、実際とは逆側の人が作成したものだと伝えられました。

 

 その結果、イスラエル人は、イスラエル人が作成したとされる提案を肯定的に評価しました。正しい作成者を伝えられた被験者がそう評価したのなら、想定できる結果だと思うでしょう。ところが、パレスチナ人が作成してイスラエル人が作成したと思いこまされていた提案についても、実際はイスラエル人が作成していた提案よりも高く評価していたのです。

 パレスチナ人に対しても同様の方法で調査が行われましたが、結果は同じような形となりました。被験者は、自分たちの側の人間が作成したと思っている提案のほうが好ましいと考え、相手側の人間が作成したと思っている提案は過小評価したわけです。(トーマス・ギロビッチ、リー・ロス『その部屋のなかで最も賢い人』P.262-264)。

 被験者自身は提案文書の内容を冷静に吟味して評価を下したつもりでも、実はバイアスにとらわれた判断をしていたということです。この結果からも、中東和平実現の難しさがうかがわれます。

 

 かつてアメリカのあるテレビ局も上記と同様の手法で「実験」を行いました。共和党、民主党の各支持者を対象に、政党名を入れ替えて提示した政策について、支持するか否かを尋ねたのです。その結果は、イスラエルの事例と同じようなものでした。つまり、各党の支持者は、政策の中身よりも、どの政党が提示したかによってその良し悪しを判断したのです。

 

 自分は公正な判断を下していると思っていても、実際は無意識のうちにとらわれているバイアスが冷静な思考を妨げていることがあります。もちろん、当人はそれに気づきません。こうしたアンコンシャス・バイアスは誰にでも少なからずあります。激しく対立している者同士ならなおのこと、共に増幅されたバイアスを抱いているでしょう。そんな状況で、両者が交渉のテーブルにつき、折り合いをつけるのは至難の業です。

 

 ウクライナ紛争についても和平を模索する動きがあります。仮に双方の当事者が和平の実現を目指すことになった場合、和平案の内容・条件が重要なのは言うまでもありません。と同時に、その案がどの国から出されたものなのか、あるいはどこの国が仲介役を果たすのかも、合意に達する上で重要なポイントになってくるといえるでしょう。

 

 ※『執筆開始、その前に ―「悪文」を避けるための考え方―』P.88-89参照

 

 ジャーナリストの池上彰氏は、『伝える力2』(PHPビジネス新書、2011年)のなかで次のような体験談を披露しています。

 

 私の文章も、中学校や高校、大学などの国語の試験問題に多数使われています。〔中略〕

 いざ自分の文章が国語の試験問題に採用されて、その問題を解いてみると、今度は答えがわからないということもありました。

 たとえば「傍線部に関して、筆者が言いたいことを次の五つの中から一つ選べ」という設問があります。どれどれ、私の言いたいことは? と問題に当たってみると、うーん、私が言いたいことはこの中にはないんだけど……ということもありました。あるいは、三つぐらいは確かに全然違うな。でも、残りの二つはどちらも言いたいことなんだけど……ということも。

 しかし、問題の「正答」は存在しているわけです。それによって、点数が分かれ、合否も左右される。なんだか割り切れない気持ちになります。(92~93頁)

 

 池上氏は試験問題となった自分の文章を前にして、納得できない思いを抱いています。

 同様に、自分の文章が試験問題に採用された経験をもつあるライターは、「はじめに問題文を読んだとき、自分の書いた文章だとすぐにわかった。でも、設問に目を通してあらためて読み返すと、なぜか自分の文章でないような錯覚を覚えた」と、当時を振り返っています(筆者、2016年)。

 なぜ、こうした現象が起きるのでしょうか。批評家の若松英輔氏の記述に、そのヒントがあります。

 

 私の書いた文章が、入学試験に用いられることがあります。後日、その問題が送られてくるのですが、作者である私が、解けない問題もあるのです。冗談のようですが、本当です。

 ですから、精確にいうと、受験生が見つけなくてはならないのは、作者のおもい、ではなく、出題者のおもいです。

 ですが、出題者の理解が間違っているとは限りません、その理解の方がより深いところにたどり着いていることも少なくないのです。作者である私は、自分の実感と違うからといってそれを否むことはできませんし、異なる見解を拒絶するのは、大変もったいないことでもあります。(若松英輔『詩を書くってどんなこと?』平凡社、2019年、20~21頁)

 

 「受験生が見つけなくてはならないのは、作者のおもい、ではなく、出題者のおもい」と捉えると、違和感の原因が見えてきます。つまり、試験問題になった文章は、元の作者ではなく出題者のものだということです。

 コラムニストの堀井憲一郎氏も同様の見解を示しています。

 

設問者が聞いているのは、著者の私の本当の考えなどではない。

いまここに出されている問題文から何を読み取れるか、それを問うているのである。

著者であろうと、自分の勝手な考えを書いても(選んでも)正解にはならない。

文章を書いた本人であろうと、問題を解くなら、いまいちど問題文を精読するしかない。〔中略〕

私が対峙しているのは、出題者である。

この「問題を作った人」が何を考えているのか、ただただ、それだけを考えて読めばいいのだ。極端な話、著者なんかどうでもいい(いいわけじゃないんだけど、でもまあ極論すればそうなる)。(堀井憲一郎「大学入試国語、問題文の著者本人が自ら解いて気づいた『読解力』の本質」『現代ビジネス』2020年1月8日 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69671?imp=0 )

 

 文章(著作物)には著作権があります。その著作権(著作者人格権)は著作者、すなわち文章を書いた本人に帰属すると法律で定められています。法的な文脈において、文章が書き手のものであることは明らかでしょう。ただ、これはあくまでも文章の所有権についての話です。

 他人の書いた文章を、読み手が自分の所有物だと主張することはできません。でも、他人の文章をどう読み、どのように理解するかは読み手の自由です。試験問題の出題に際しては、その読み手が問題作成にあたります。出題者は、元の文章に書かれた言葉に基づいて内容を解釈したうえで、新たな「書き手」として問題を作成するわけです。つまり、問題文の書き手は、元の作者から試験の作成者に代わったと認識しておく必要があるのです。

 書き手は、さまざまな思いを抱いて文章を書きます。一つ一つの言葉に、特別な思いを込めて書きあげるかもしれません。伝えたいことがたくさんあるなか、文字数制限のために仕方なく多くを割愛するかもしれません。わずか数十文字の文を書くために、何日も悩むかもしれません。このように、書き手がいかなる心境で書いたとしても、読み手が目にするのは書かれた文字だけです。

 読み手は、言葉として表現されていない書き手の思いまでは読み取れません。読み手が受け取った書き手の思いは、あくまでも書かれた言葉から推測したものです。そこで想像された思いが、書き手の本来の思いと一致するとはかぎりません。読み手が、書き手の意図とは異なる解釈をしたとしても、基本的にそれを正す術はないのです。

 法的には自分の著作物であっても、書き手から読み手に渡った瞬間から、その文章は読み手のものになるのです。つまるところ、「自分の文章」も、書き手の手元を離れてしまえば「他人の文章」になってしまうということです。

 

 ※『執筆開始、その前に ―「悪文」を避けるための考え方―』P.227-231参照

 

 確証バイアスが顕著に現れるのが、インターネットにアクセスするときです。今日、何らかのテーマについて資料を集める際、まずインターネットを使うという人が多いでしょう。インターネット上で閲覧できる情報は増加の一途を辿っています。かつては紙でしか読めなかった書籍や雑誌、新聞の情報も、昨今は画面上で閲覧できるケースが増えてきました。簡単なレポートくらいであれば、インターネットで集めた情報だけで書いてしまうという人もいるでしょう。

 

 インターネットがまだ影も形もなかったころ、さらにメディア自体がまだ発展途上にあった時代は、正確な情報と信憑性の低い情報が混在するような状態にありました。たとえば、明治の初めころの新聞では、出所が明確な情報と噂話レベルの情報が、同じ新聞紙面に掲載されるというのはごく普通のことでした。当時は、今日のようにメディアの棲み分けもなされていませんでしたし、そもそも集められる情報自体が少なかったのです。

 時代が進むにつれて、情報を収集する体制や通信技術が進化していきます。同時に媒体も増加し、情報の信頼度は、媒体を見ればおおよそ見当がつけられるようにもなりました。さらには、政治的スタンスも媒体によって判別できるようになっていきました。

 

 ところが、インターネットの普及によって、再びさまざまな情報が混在するような状態へと変化していきました。インターネットで欲しい情報を探すとき、多くの人はまず検索サイトやSNSにアクセスするでしょう。しかし、それらを通して情報を得ようとすると、信頼できる情報も出所の怪しい情報も、正確なニュースもフェイクニュースも、すべて同じ画面上に表示されます。

 一見すると便利なように思えますが、他方で情報の真偽を見極めづらい状況も生み出しています。もちろん、初めから信頼できるサイトが分かっていて、そこに直接アクセスするのであれば差し支えはないでしょう。でも、多くの人は、幅広い情報を得ようと検索サイトなどを利用します。

 

 インターネットにアクセスすると、テーマによっては膨大な量の情報を目の当たりにします。理想としては、それらの出所を確認しながら、一つ一つの情報を冷静かつ客観的に比較・分析するのがよいと言えます。しかし、閲覧できる情報のすべてにアクセスするというのは、現実的には難しいでしょう。結果として、多くの人はそのなかから重要と思われる情報をいくつか選び出し、それらを資料として利用します。

 

 情報を選別する際、テーマに対して中立的な立場で情報を選択できればよいのですが、残念ながら人間はそうしたやり方が得意ではありません。確証バイアスによって、自分に都合のよい情報ばかりを集めようとしてしまうのです。しかも、本人は確証バイアスに陥っていることに気づきません。

 

 さらに、インターネットにアクセスする際は、クリックするだけで目にする情報を簡単に切り替えることができます。自分の見解と相容れない記述が出てきたら即座にページ閉じて、自分にとって好ましい情報へジャンプすることも可能です。

 

 一人で作業をしていれば、バイアスに陥っていると指摘されることもないので、結果的に、自分にとって好ましくない情報を避け、好ましい情報ばかりに偏る傾向がより強くなります。なかには、情報を比較、検討する前に、自分の意見に合致した都合のいい記述が見つかった段階で情報収集を終えてしまうという人もいるでしょう。「まさに、これが自分の考えていたことだ」と、他人の書いた意見を自分の文章にコピペしてしまうかもしれません。

 

 逆に、自分にとって都合のいい資料が見つからない場合は、それが見つかるまで検索を続けようとします。ダイエット中に体重を測るとき、減っていれば一回で済ませ、減っていないと何度も測り直そうとする人がいますが、これと似たような心理状態です。

 

 こうしたバイアスを避けるには、ピーター・ウェイソンの数列の事例と同様、あえて自分の考えに反する情報と向き合うよう意識せねばなりません。

 

 ※『執筆開始、その前に ―「悪文」を避けるための考え方―』P.156-158参照

 

 

 確証バイアスに陥りやすい場面は、身近なところにたくさんあります。健康に関する情報と接する場面が、その一例として挙げられます。なかでも、ダイエットに関する情報はその典型例と言えるでしょう。

 「○○をしたら痩せられた」といった体験談は世の中にあふれています。そうした情報をこまめにチェックして、日々実践している人も少なくありません。ただ、そこでチェックされる情報の多くは、「痩せられた」という成功した人に関する情報です。「○○をしたら痩せられた」という体験談を10人分ほど集めれば、その効果の信憑性はそれなりに高いと感じられるかもしれません。でも、その背後に、成功者の何倍もの人が「○○をしたけど痩せられなかった」という事実があったとしら、その信憑性は一気に低下するでしょう。

 

 しかし、確証バイアスに陥ると、成功しなかった事例には意識が向かなくなります。○○を実践しているときに、「○○をしたけど痩せられなかった」という情報に接したとしても、「例外的な体験談にすぎない」と決めつけ、無視してしまうかもしれません。

 神経科学者のターリ・シャーロット(Tali Sharot)氏は、今日の社会で情報を集めることに関して次のように述べています。

 

 矛盾しているようだが、豊富な情報が得られるようになると、人は自分の意見にもっと固執するようになる。なぜなら、自分の考えを裏付けるデータを簡単に見つけ出せるからだ。〔中略〕私たちは自分の見解を支持するブログや記事は注意深く読むが、別の考え方を示すリンクにはクリックしようともしない。 だがこれは問題の半分にすぎない――もう半分は、水面下で情報の「いいとこ取り」が行われていることに、私たちが気付かないでいる点だ。(『事実はなぜ人の意見を変えられないのか ―説得力と影響力の科学』上原直子訳、白揚社、2019年、27頁)

 

 確証バイアスに陥った人は、自分に都合のよい情報ばかりを集めようとします。しかし本人は、自分は中立的な立場で情報に接していると錯覚しているのです。客観的に見れば、偏った情報ばかり選んでいるにもかかわらず、本人はそれを自覚できません。この状態に陥るのは、情報を発信する側がそのように仕向けていることも一因だも言えます。とくに広告媒体では、そうした傾向が見られます。情報を受け取る側には、これを見越して情報に接する姿勢が求められます。

 

 確証バイアスは、賛成と反対が明確に分かれるようなテーマについて論じる際にもよく見られます。昨今の日本では、憲法改正、原子力発電、死刑制度などがその代表例として挙げられるでしょう。いずれのテーマについても、賛成、反対、それぞれについての情報が書籍や雑誌はもちろん、インターネット上にもあふれています。その気になれば、双方の情報をバランスよく読むことも可能です。しかし、すでに賛否の意思を明確にしている人は、逆の立場の情報をあえて読みたいとは思わないでしょう。異なる立場の情報は、「偏っている」とか「まちがっている」という先入観をもつ人からすると、読むのは不快にすら思えるかもしれません。

 

 実際、賛成の人は賛成の立場で書かれた情報を、反対の人は反対の理由を明示した情報を選択しがちです。自分の立場に合致した情報に触れることで、結果的に自分の信念をさらに強めてしまうのです。

 

 ※『執筆開始、その前に ―「悪文」を避けるための考え方―』P.153-156参照

 

 1960年代に、イギリスの心理学者、ピーター・ウェイソン(Peter Cathcart Wason,1924~2003)がある実験を行いました。その内容は次のとおりです。

 

 まず、被験者に「2-4-6」という三つの数字が提示されます。これは、ある規則に従って並べられています。被験者には、その規則がどのようなものなのか、正解を導き出すことが求められます。その際、被験者は自らの仮説を確かめるために自分でつくった数列を実験者に伝え、それが規則に当てはまるか否かの確認ができます。確かめる数列の数に制限はありません。規則が分かった段階で、被験者は答えを述べます。

 これが実験の概略です。非常によく知られた実験なのでご存じの人もいるでしょう。初めてという人は、少し考えてみてください。

 

 「2-4-6」という数列を見て、多くの人はある規則がすぐに浮かんだかと思います。それが正しいかを確認するために、たとえば「8-10-12」、「52-54-56」、「100-102-104」といった数列を考えたのではないでしょうか。例示した三つの数列は、いずれも規則に当てはまります。しかし、答えは「2ずつ増える偶数」ではありません。

 「1-3-5」とか「7-9-11」という数列を挙げた人もいるでしょう。これらも規則に当てはまります。しかし、「2ずつ増える整数」も正解ではないのです。

 

 ウェイソンの考えた規則とは、「昇順に並べられた数字」です。つまり、「2-7-9」でも「10-99-150」でも、順に増加する数字であれば何でも規則に当てはまるわけです。でも、多くの人はそうした数列を提示しません。「6-4-2」や「10-5-2」といった減少する数字の並びも同様に提示しようとしません。

 

 大抵の人は、思いついた仮説を確かめようと、その仮説に合致した数列ばかりを提示します。「2ずつ増える偶数」だと思ったら、その事例をいくつも出して、自分の仮説の正しさを証明しようとするのです。しかし、一つの仮説にとらわれてしまうと、いくら事例を提示しても「昇順に並べられた数字」という答えに辿りつけません。正解を導き出すには、仮説とは異なる数列を提示して確かめる必要があるのです。

 

 このように、自分が正しいと思う仮説と合致する情報ばかりを集め、仮説に反する情報を避けてしまうことを「確証バイアス」と言います。

 このバイアスに陥ると、仮説の正しさを証明するために、それと合致する事例ばかりに注目してしまいます。そのいずれもが正しいと確認できると、ますますその仮説に自信を深めていきます。このような状態を避けるためには、自分の仮説と合致しない事例を見いだして確認せねばなりません。あえてまちがえることによって正解に近づける、ということです。

 

 ※『執筆開始、その前に ―「悪文」を避けるための考え方―』P.151-153参照

 

 

小説を書くためのルールは三つある。残念なことに、誰もそれを知らない――。 

 

 『月と六ペンス』などで知られるイギリスの小説家、サマセット・モーム(William Somerset Maugham,1874~1965)が遺した言葉です。モームの名言として広く引用されている言葉ですが、その出典は定かでありません。一説によると、モームが自身の著作に記したものではなく、ある学生から小説の書き方を尋ねられた際に述べた言葉だとされています。(Ralph Daigh, "Maybe You Should Write a Book", Prentice Hall, 1977, p.7)「書くためのルールなんかない」――おそらく、モームはこう伝えたかったのでしょう。

 

 小説にかぎらず、文章を書くための「ルール」を解説した本は多数出版されています。実際、そうした本を読んだことがある、という人もいるでしょう。言葉遣いや原稿用紙の使い方、句読点の打ち方、括弧の付け方など、書くためのルールはたしかに存在します。モームの真意は定かでないものの、少なくとも彼は、こうした形式面のルールを思い描いていたわけでないことは明らかです。

 

 では、形式面以外のルールは存在するのでしょうか。

「何をどのように書くかは書き手の自由であって、ルールなどない」

 そう考える人は多いと思います。実際、世の中には書き手が自由にしたためた文章が無数にあります。自分自身を振り返ってみても、文章を書くときに何らかのルールを意識したことはない、という人がほとんどでしょう。ただ、そうした自由に書かれた文章のなかには、読み手にわたったあとで何らかの問題が発覚するという場合が決して少なくありません。

 

 他人の文章を自分が考えた文章であるかのように偽って書く。

 実態とは異なる誤った情報に基づいて書く。

 事実を伝えねばならない場面で虚偽の事柄を書く。

 事実ではないことを事実と思いこんで書く……。

 

 そうして作成された文章は、読み手に誤解を与えるだけでなく、場合によっては社会的な問題になることもあります。違法行為と見なされ、ペナルティーを受ける可能性すらあるのです。書くことに関する形式面のルールを熟知し、高い作文技術を身につけていたとしても、書いたものに疑念を抱かれてしまっては意味がありません。

 

 そう考えると、文章はただ自由に書けばいいわけではないことが分かります。つまり、文章を書くにあたっては、形式面以外にも何らかのルールがあると認識する必要があるということです。

 本書は、そのルールを確認するための本です。とはいえ、ルールについて直接解説した本ではありません。本書は、「○○をすべき」とか「○○をしてはいけない」といった規範を列記することに主眼を置いていません。先に挙げたような問題になる文章、すなわち「悪文」を書かないための考え方という形で、書くためのヒントを多数提示していきます。

 

 「悪文」とは、本来、分かりにくい文章や下手な文章を指しますが、世の中には分かりやすく書かれていても、実際に害悪をもたらす文章が少なくありません。そうした文章を含めた幅広い意味での「悪文」を避けるために、必要な考え方を知ってもらうことが本書の目的です。書くうえで心掛けるべき「ルール」は、読み進める過程で自ずと見えてくるでしょう。

 

 本書は作文をテーマにしていますが、作文そのものではなく、いわば作文をはじめるのに必要な土台づくりをサポートするための本です。執筆をはじめる前に知っておきたい事柄を学ぶ手引書、と言ってもいいでしょう。

 

 また本書は、書くことに関する思考や行動といった根源的なテーマにも踏みこんでいきます。そのため、場合によっては、本書を読んだことで逆に筆が進まなくなるという可能性があります。まさに何らかの文章を書こうとしている人、すでに書きはじめている人は、本書を一旦遠ざけたほうがいいかもしれません。

 タイトルは「執筆開始、その前に」となっていますが、執筆の直前ではなく、本書の内容を十分消化できる余裕があるときに読むことをおすすめします。

 

 本書は、全体を大きく三つのテーマに分けています。一つ目が、書く目的を見定めること。二つ目が、書くための材料を見極めること。そして三つ目が、相手すなわち読み手を見据えることです。それぞれの具体的な内容は本文中で解説していきますが、まずは「何のために書くのか」、「何を使って書くのか」、「誰が読むのか」、この三点が重要になるということだけ押さえておいてください。

 本書では、文章を書く前に頭に入れておきたいポイントを多数紹介していきます。その前提として、右に挙げた三つの事柄を軸に据えることで、それらのポイントをよりスムーズに理解できると考えています。

 

 なお、「文章」について論じていく本書ですが、基本的には実用文を書くことを想定した内容になっています。実用文とは、誰かに何らかの情報を伝えるために書く文章のことです。そこに記されるのは、事実と事実に基づいた意見・考えです。具体的には、レポート、報告書、企画書、説明書、自己紹介文などさまざまなものが挙げられます。情報を伝えるという意味では、ツイッター(Twitter)などSNSに書きこまれる短い文章も含まれます。

 一方、詩や俳句といった自分の思いを表現するために書く文学作品、あるいは個人的な日記など、本書での説明が当てはまらない文章もあります。冒頭で小説に関する文を引用しましたが、小説を書く場面についても直接関係のない事項が含まれることはご了承ください。

 

 それでは、執筆を開始する前の地ならしをするつもりで、まずは肩の力を抜いてページをめくっていってください。