ジャーナリストの池上彰氏は、『伝える力2』(PHPビジネス新書、2011年)のなかで次のような体験談を披露しています。

 

 私の文章も、中学校や高校、大学などの国語の試験問題に多数使われています。〔中略〕

 いざ自分の文章が国語の試験問題に採用されて、その問題を解いてみると、今度は答えがわからないということもありました。

 たとえば「傍線部に関して、筆者が言いたいことを次の五つの中から一つ選べ」という設問があります。どれどれ、私の言いたいことは? と問題に当たってみると、うーん、私が言いたいことはこの中にはないんだけど……ということもありました。あるいは、三つぐらいは確かに全然違うな。でも、残りの二つはどちらも言いたいことなんだけど……ということも。

 しかし、問題の「正答」は存在しているわけです。それによって、点数が分かれ、合否も左右される。なんだか割り切れない気持ちになります。(92~93頁)

 

 池上氏は試験問題となった自分の文章を前にして、納得できない思いを抱いています。

 同様に、自分の文章が試験問題に採用された経験をもつあるライターは、「はじめに問題文を読んだとき、自分の書いた文章だとすぐにわかった。でも、設問に目を通してあらためて読み返すと、なぜか自分の文章でないような錯覚を覚えた」と、当時を振り返っています(筆者、2016年)。

 なぜ、こうした現象が起きるのでしょうか。批評家の若松英輔氏の記述に、そのヒントがあります。

 

 私の書いた文章が、入学試験に用いられることがあります。後日、その問題が送られてくるのですが、作者である私が、解けない問題もあるのです。冗談のようですが、本当です。

 ですから、精確にいうと、受験生が見つけなくてはならないのは、作者のおもい、ではなく、出題者のおもいです。

 ですが、出題者の理解が間違っているとは限りません、その理解の方がより深いところにたどり着いていることも少なくないのです。作者である私は、自分の実感と違うからといってそれを否むことはできませんし、異なる見解を拒絶するのは、大変もったいないことでもあります。(若松英輔『詩を書くってどんなこと?』平凡社、2019年、20~21頁)

 

 「受験生が見つけなくてはならないのは、作者のおもい、ではなく、出題者のおもい」と捉えると、違和感の原因が見えてきます。つまり、試験問題になった文章は、元の作者ではなく出題者のものだということです。

 コラムニストの堀井憲一郎氏も同様の見解を示しています。

 

設問者が聞いているのは、著者の私の本当の考えなどではない。

いまここに出されている問題文から何を読み取れるか、それを問うているのである。

著者であろうと、自分の勝手な考えを書いても(選んでも)正解にはならない。

文章を書いた本人であろうと、問題を解くなら、いまいちど問題文を精読するしかない。〔中略〕

私が対峙しているのは、出題者である。

この「問題を作った人」が何を考えているのか、ただただ、それだけを考えて読めばいいのだ。極端な話、著者なんかどうでもいい(いいわけじゃないんだけど、でもまあ極論すればそうなる)。(堀井憲一郎「大学入試国語、問題文の著者本人が自ら解いて気づいた『読解力』の本質」『現代ビジネス』2020年1月8日 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69671?imp=0 )

 

 文章(著作物)には著作権があります。その著作権(著作者人格権)は著作者、すなわち文章を書いた本人に帰属すると法律で定められています。法的な文脈において、文章が書き手のものであることは明らかでしょう。ただ、これはあくまでも文章の所有権についての話です。

 他人の書いた文章を、読み手が自分の所有物だと主張することはできません。でも、他人の文章をどう読み、どのように理解するかは読み手の自由です。試験問題の出題に際しては、その読み手が問題作成にあたります。出題者は、元の文章に書かれた言葉に基づいて内容を解釈したうえで、新たな「書き手」として問題を作成するわけです。つまり、問題文の書き手は、元の作者から試験の作成者に代わったと認識しておく必要があるのです。

 書き手は、さまざまな思いを抱いて文章を書きます。一つ一つの言葉に、特別な思いを込めて書きあげるかもしれません。伝えたいことがたくさんあるなか、文字数制限のために仕方なく多くを割愛するかもしれません。わずか数十文字の文を書くために、何日も悩むかもしれません。このように、書き手がいかなる心境で書いたとしても、読み手が目にするのは書かれた文字だけです。

 読み手は、言葉として表現されていない書き手の思いまでは読み取れません。読み手が受け取った書き手の思いは、あくまでも書かれた言葉から推測したものです。そこで想像された思いが、書き手の本来の思いと一致するとはかぎりません。読み手が、書き手の意図とは異なる解釈をしたとしても、基本的にそれを正す術はないのです。

 法的には自分の著作物であっても、書き手から読み手に渡った瞬間から、その文章は読み手のものになるのです。つまるところ、「自分の文章」も、書き手の手元を離れてしまえば「他人の文章」になってしまうということです。

 

 ※『執筆開始、その前に ―「悪文」を避けるための考え方―』P.227-231参照