97年、24歳の私は大人になってから始めたスノーボードで、オリンピックを目指していた。

98年の長野オリンピックで初種目となったスノーボードは日本中から注目を浴びていた。

このとき私はまだスノーボードを始めて3年。


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新聞、テレビ、雑誌。

FRIDAYにまで取材された。

オリンピックって、子供の頃からの才能と努力を積み重ねてきた人が目指せる場所だと思っていたけれど、この新しい趣味の延長のスポーツが、新しい種目となって、今目の前にあるなんて。

目指させるものなら目指したいに決まってる!


当時、スノーボード連盟と、オリンピックのためのスキー連盟とでの派閥があり、プロ資格を取得したスノーボーダーがオリンピックを目指すのはタブーとされていた。

たぶん、誰もがオリンピックを目指したいはずだった。
でもそうしない人たちが沢山いた。
そしてそう踏み出す人に批判も集まった。

誰にどう言われようが、私の人生だ。やっちゃおう。

そう思った。

誰かの言うとおりにして、誰かが私の人生の責任を取ってくれるわけじゃない。


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まず、ワールドカップを回るために、私は子供の頃から貯金していたお金を使った。

預金したときの年を見ると、そこには小学生の私がいた。

預金額は、お年玉から好きなものを買って、余ったお金。

1000円とか、3000円から始まっていた。

子供の頃に貯めた大切なお金を、将来の自分が使う。

このお金を使うことによって、すごいパワーがついてくる!そう思えた。

それからガムシャラに世界で行われる大会を回った。

まだまだ荒削りだった私は、大会に出るたび上手くなった。


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オリンピック直前の大会で、一緒に遠征していたユリッペ(吉川由里ちゃん)が優勝し、日本人最後の切符を手にした。

シンデレラガールとしてものすごい勢いで日本のニュースになっていった。

(私はダメだったんだな~)

そう実感しながら日本へ帰ってきた。

大きな荷物を持って、池袋で空港からのリムジンバスを降りると、珍しく2番目の姉が迎えに来ていた。

スノーボードケースが長いから、お姉ちゃんの軽自動車には助手席を倒さないと乗せられなくて。

私は運転席の後ろの席に座った。

「ダメだったよ~」

泣きそうになりそうだったので、それだけどうにか普通に言った。

私たちは年子で、学年ひとつ上の姉はおっとりしていて、何をするでもいつも私が先に行動していた。

「ユキ、もうひとりで電車に乗れたの?すごいね!」

そういうお姉ちゃんだった。


「とんとん拍子でやってこれたユキにとって、今回の挫折は絶対に今後のユキのためになるよ。」

運転しながら、お姉ちゃんがそう言った。

その言葉を聞いたら、一気に涙が溢れてきた。

ほっとしたような、なんとも言えない気持ちだった。

後ろの席で良かった、と思いながら、バレてないつもりで泣いてた。


そこからが、本当の意味での、プロスノーボーダー上田ユキエの人生の始まりだった。

「この挫折があったから、私はもっと強くなれる!」

そう思えて、ずっと頑張ってこれた。


人からもらう言葉の重み。

本当に大切だと思う。