最近、昔読んだ小説系指南書の中で「小説を書くということは、真っ暗で孤独な大海に(ひとり)乗り出すようなものである」というような記述があったことをよく思い出す。そして、小説(らしきもの)を何本か書いてみた今なら、また読むと違った感想をもつかもしれない(何か役に立つかも)と思って、図書館で探して借りてみることにした。
その本の名は「まだ見ぬ書き手へ」というものだった。丸山健二氏の書かれたものである。1994年第一刷発行。もう、20年も前に書かれた本ということになる。「そんな昔の本を読んで、今参考になるのか?」そんな思いもないではないが、それでも、私は、そんな「昔に書かれた本である」ことを意識しつつも、その本を読んでみることにした。図書館では、「書庫」に眠っていた本である(たたき起こしてしまった:笑)。
(半分ほど)読んで思った。小説を書くには「(秘めたる)才能」が必要であり、いくら才能があるといっても、いきなりは書けない。仏像を彫るのに、まずは「粗彫り」からはじめるように、小説もまずは「粗書き」からはじめて、最低でも「7回」くらいは書きなおす必要がある、なんてことが書かれてあったりした(かなり割愛記述してます)。
例の読みたかった「大海」の記述もあった。「文学の大海はほとんど手つかずのまま、すぐそこに、その気になりさえすればいつでも手が届くところに横たわり、魅力たっぷりにゆったりとうねっている」、そして、浜辺で砂遊びをしたり、波とたわむれたりしているのではなく、「大海に」乗り出そう、というような記述が確かにあった。でも、昔ほど、(ふるえるような)情動は起きなかった。「懐かしい」記述のような気がする(^^;)。
私が、この本を最初に読んだのは、そう、もう10年くらいは前の話になると思う。この頃は、「小説家というのは、どのようにして小説を書いているのか?」みたいなことに興味があって、そのような小説系指南書の本を何冊も、何冊も読んだ記憶がある。この本は、そんな本たちのひとつであった。
でも、読んでもすぐに忘れてしまう内容のものたちも多かった中、この本の大海の記述だけは、頭のすみに残って、ときどき思い出したりもしていた。それだけ、当時の私にとって「衝撃的」な記述であった、ということもできると思う。
そして、「今」が知りたくなった。今、丸山健二氏はどうされているのか?そんなことが知りたくなったのだ。Amazonで調べてみると、なんと!「まだ見ぬ書き手へ」は、「新装版」として、昨年(2013年)再出版されていた。おぉ、私の感覚もあながち古くはない(悪くはない)のか?と妙な感覚を覚えながらも、その本の商品紹介文を読んでみた。すると、これはいけない(苦笑)。なんだか、先生は、より、先生趣向の傾向が強まったようで?あまり惹かれる内容のものではなかった(苦笑)。
そして、「丸山健二文学賞」なるものが、昨年創設されたというので、そのホームページも探して見に行ってみた。すると、先生の動画があったりして、その(創設した)「意気込み」は、(先生的には)わからないでもないのであるが、どうも、「応募してみよう」と私が思うような(種類の)ものではなかった。それに、きっと、もし実際に応募したとしても、「わたしごときの」文章では、先生のお気に召すことはなく、「1行読んだだけで」読み捨てられてしまうことは、目に見えているような気がしてきた。
この2つの印象の違いについて考えてみた。私は、たしかに、「本から影響を」受けた。でも、ここ最近の先生の現実の「発言文章」には、共感しかねるものがある…。これは何を意味しているのか?そんなことをとめどもなく考えてみたりする…。この問いには答えはない(たぶん)。でも、「現実の」、「生身の」丸山氏が現実に今の時代に存在する、その意味?(意義?)について、思いをはせてみたりもする。
なんだか、本もまだ半分までしか読んでいない状態なのに、(ブログ)記事に記載したくなった(笑)。このことが、(今の)私にどんな役に立ったのか、今すぐにはわからないかもしれない。ましてや、この記事を読んでくださった方々の時間の浪費にならなかったのか、(多少の)心配は残る。でも、どうしても「書きたかった」んです!(爆)すいません、見捨てないでください(笑^^;)。
はい、今日は、こんなところで(笑)。文学志向の方で、興味を惹かれた方があったら、ぜひ、(本)読んでみてくださいね(^^;)。
それでは、また!次回は、もっと軽い?楽しい話にしよう(笑)。←自分に言い聞かせてます(^^+)。
それでは。
その本の名は「まだ見ぬ書き手へ」というものだった。丸山健二氏の書かれたものである。1994年第一刷発行。もう、20年も前に書かれた本ということになる。「そんな昔の本を読んで、今参考になるのか?」そんな思いもないではないが、それでも、私は、そんな「昔に書かれた本である」ことを意識しつつも、その本を読んでみることにした。図書館では、「書庫」に眠っていた本である(たたき起こしてしまった:笑)。
(半分ほど)読んで思った。小説を書くには「(秘めたる)才能」が必要であり、いくら才能があるといっても、いきなりは書けない。仏像を彫るのに、まずは「粗彫り」からはじめるように、小説もまずは「粗書き」からはじめて、最低でも「7回」くらいは書きなおす必要がある、なんてことが書かれてあったりした(かなり割愛記述してます)。
例の読みたかった「大海」の記述もあった。「文学の大海はほとんど手つかずのまま、すぐそこに、その気になりさえすればいつでも手が届くところに横たわり、魅力たっぷりにゆったりとうねっている」、そして、浜辺で砂遊びをしたり、波とたわむれたりしているのではなく、「大海に」乗り出そう、というような記述が確かにあった。でも、昔ほど、(ふるえるような)情動は起きなかった。「懐かしい」記述のような気がする(^^;)。
私が、この本を最初に読んだのは、そう、もう10年くらいは前の話になると思う。この頃は、「小説家というのは、どのようにして小説を書いているのか?」みたいなことに興味があって、そのような小説系指南書の本を何冊も、何冊も読んだ記憶がある。この本は、そんな本たちのひとつであった。
でも、読んでもすぐに忘れてしまう内容のものたちも多かった中、この本の大海の記述だけは、頭のすみに残って、ときどき思い出したりもしていた。それだけ、当時の私にとって「衝撃的」な記述であった、ということもできると思う。
そして、「今」が知りたくなった。今、丸山健二氏はどうされているのか?そんなことが知りたくなったのだ。Amazonで調べてみると、なんと!「まだ見ぬ書き手へ」は、「新装版」として、昨年(2013年)再出版されていた。おぉ、私の感覚もあながち古くはない(悪くはない)のか?と妙な感覚を覚えながらも、その本の商品紹介文を読んでみた。すると、これはいけない(苦笑)。なんだか、先生は、より、先生趣向の傾向が強まったようで?あまり惹かれる内容のものではなかった(苦笑)。
そして、「丸山健二文学賞」なるものが、昨年創設されたというので、そのホームページも探して見に行ってみた。すると、先生の動画があったりして、その(創設した)「意気込み」は、(先生的には)わからないでもないのであるが、どうも、「応募してみよう」と私が思うような(種類の)ものではなかった。それに、きっと、もし実際に応募したとしても、「わたしごときの」文章では、先生のお気に召すことはなく、「1行読んだだけで」読み捨てられてしまうことは、目に見えているような気がしてきた。
この2つの印象の違いについて考えてみた。私は、たしかに、「本から影響を」受けた。でも、ここ最近の先生の現実の「発言文章」には、共感しかねるものがある…。これは何を意味しているのか?そんなことをとめどもなく考えてみたりする…。この問いには答えはない(たぶん)。でも、「現実の」、「生身の」丸山氏が現実に今の時代に存在する、その意味?(意義?)について、思いをはせてみたりもする。
なんだか、本もまだ半分までしか読んでいない状態なのに、(ブログ)記事に記載したくなった(笑)。このことが、(今の)私にどんな役に立ったのか、今すぐにはわからないかもしれない。ましてや、この記事を読んでくださった方々の時間の浪費にならなかったのか、(多少の)心配は残る。でも、どうしても「書きたかった」んです!(爆)すいません、見捨てないでください(笑^^;)。
はい、今日は、こんなところで(笑)。文学志向の方で、興味を惹かれた方があったら、ぜひ、(本)読んでみてくださいね(^^;)。
それでは、また!次回は、もっと軽い?楽しい話にしよう(笑)。←自分に言い聞かせてます(^^+)。
それでは。