紫式部の父為時(949~1029)が996年に越前の守に任じられたのは、漢詩文の才能を見込まれ、当時越前に漂着した宋の商人一行70名余りの交渉役としてだという説もあるようです。大河ドラマではどのように描かれていたかは知りませんが、為時は宋商人と意気投合して漢詩のやり取りをしています。

 

『宋史』日本国の条では、第2代の太宗(趙匡義)のときに朝貢した僧奝然(ちょうねん)など遣宋使の漢文力を高く評価しています。

1002年第3代真宗の項には、福建省の海賈(かいこ:海商)周世昌が海難で日本に漂着したあと日本人を連れて帰国、日本人(為時)と交わした漢詩を持って謁見した、という記事があります。漢詩の感想は「詞甚雕刻膚浅無所取=ことば甚だ雕刻(ちょうこく)すれども膚浅(ふせん)にして取る所無し」(大意:その詩句はなかなか凝ってはいたが、薄っぺらで取り柄が無かった)とばっさり。

美辞麗句で飾られた詩より、蘇軾(自然詠)や欧陽脩(質実剛健)、黄庭堅(リアリズム)などの詩風が好まれた時代を反映した感想のようです。時代の今に遅れた、昔ながらの美文調の漢詩が主流だった日本の文化事情がうかがえますね。

 *( )内はそれぞれの詩人の作風の大雑把な“ワタクシ的まとめ”<(_ _)>

この謁見時には、おすべらかしと大量の絹織物を使う十二単など貴族女性の身なりの説明を受けたり、同行した日本人が持参した弓が使い物にならなかったのですが、長い間戦乱が無く武闘訓練の必要が無かったからとの答えに納得したようです。

 *このほかにも『宋史』では、日本では天皇はじめ官僚・貴族たちも戦乱を

  経ず連綿と続いていることに感心しています(政争までは言及していない)。