本『月ぞ流るる』 澤田瞳子 文芸春秋社 2023年 初版

 

去年の11月末に出たばかりの小説です。

一条帝の中宮彰子(しょうし988~1074)サロンの女房の一人、赤染衛門*の晩年に材をとって、『栄花物語』を執筆するに至る動機を創作したものです。

 *赤染衛門(956?~1040)は大江匡衡(おおえのまさひら952~1012)の妻

 

発端の「有明」の章では主人公朝児(あさこ)は56歳、夫匡衡の七七日(四十九日)の供養が済んでまもなくと設定されているので、1012年頃と推定されます。二人の間には長男挙周(たかちか)、大鶴と小鶴の姉妹がいて、大鶴(江侍従と呼ばれた女房のことか)はすでに三条帝の中宮姸子(けんし994~1027)の女房として出仕しています。

  左大臣藤原道長は前年の6月に一条天皇(980~1011 在位986~1011)から

  三条天皇(976~1017 在位1011~1016)に譲位させています。

寡婦となって隠居するつもりだった朝児のもとに、厄介な依頼が持ち込まれます。

それが藤原兼家の娘(道長の妹)で三条帝の女御であった綏子(すいし974~1004)と源頼定との間に生まれた頼顕の教育でした。(綏子と頼定の恋愛は記録にありますが、こどもの存在はフィクションと思われる)

頼顕という少年は育ての親である三条帝の女御原子(げんし980~1002)**も失い、世を拗ねた乱暴者に育ち顕性寺に預けられています。

 **藤原道隆の娘、一条天皇の中宮定子(ていし976~1000)の妹にあたる

 

「上弦」

朝児のもとで学び始めた頼顕の複雑な気持ちが描かれます。朝児は娘と同じ姸子のもとへ出仕するよう求められます。

ここで、唐突に表れる藤(紫)式部が朝児よりかなり年上に描かれていることにかなり引っかかりました。

  彰子サロンを形成していた女房は

  赤染衛門:彰子の母源倫子に仕えた縁で彰子にも仕える。一番年かさ)

  藤式部(975?~?):出仕期間は1005~1013頃と推定

  和泉式部(978~?):学問の家大江家の出身。はなやかな恋愛で知られる

  なお、定子のもとに出仕していた清少納言は(966?~?)道長とほぼ同年

のちに、『栄花物語』に取り掛かるきっかけともなる藤式部とのやり取りが重要なポイントであるだけに、(赤染衛門のほうが15歳以上年上のはずなので)藤式部が老婆という印象を与える描写には驚きました。フィクションとはいえ、この時代にウルサイ(私のような)読者や研究者もいることを思うと、せっかくの物語のキズになっていると思いました。

あろうことか、この章では頼顕のダメ父・源頼定は今度は一条帝の女御元子(げんし生没年不詳)と恋愛関係になります。これは史実です。

菅原道真の子孫と思しい菅原宣義、頼顕から仇と狙われる三条帝の皇后娍子(せいし972~1025)⁂、はては藤原行成、源俊賢まで、道長周辺の実在人物が配されています。

 ⁂藤原済時の娘。1012年三条天皇の望みで立后される。多くの公卿が出席を

 拒むなか、藤原実資が立后式を遂行し皇后となる。

 

「十日夜(とおかんや)」

この章では内裏からの出火が語られます。

  実際に『御堂関白記』によると、1012年2月に、一条帝の中宮彰子の住まい

  枇杷殿が火災で焼け落ちています(一条天皇は前年6月に崩御)。

  この時まだ出仕していたはずの『紫式部日記』では彰子の気持ちを慮ってか

  火災に触れていません。

そして、大臣や天皇の意向で動く火事師(火つけ)の存在、またしても譲位を迫る道長とあくまでも抵抗を試みる三条天皇との確執は熱を帯びてきます。

「・・・九年まえの寛弘二年(1005年)・・・」におきたという火事に触れていますが、これはフィクション。この章の年は1014年で道長49歳ということに。

「 世始まりて後、」と『栄花物語』の冒頭が、朝児の胸に浮かびます。

 

「小望月」

帝の病に効くという薬の材料を集める頼顕。皇后娍子を憎むあまり、娍子を寵愛する天皇までも憎んでいたはずの頼顕ですが、道長の専横ぶりを見るにつけ次第に心の持ちようも変化します。原子殺しの犯人と思い込んでいた娍子の実像も頼顕の変化に作用します。自分の孫を早く帝位に着けたい道長の勢いは止まりません。

 

「暁月」

いよいよ頼顕の原子殺しの犯人追及は大詰めを迎えます。

・・・・・またしても火事・・・・道長の娘という理由で顧みられなかった中宮姸子と三条天皇は・・・・。

なかなか余韻のある終章でした。

藤式部の描写を除いては、史実との齟齬も気になるほどではなく、おおむね満足できました。

 

私は実在の人物と物語の進行を整理するために、ついに、『御堂関白記』を引っ張り出して時系列の整理をしてしまいました。

そしてあらためて公卿たちが雪崩を打って道長のもとへ走る中、公然と道長を批判し続けた右大臣藤原実資、もともと道長に敵対していた(定子の弟)藤原隆家や(娍子の弟)藤原通任、実資の実兄藤原懐平の在りようがかっこ良く見えてきます。

もちろん、ことはそう単純ではないのですが。