あることが気になったら、ネットや本を駆使して調べまくる。調べ魔の私がよくとる手段です。

都内で開かれている鏑木清方展については多くのブロ友さんが取り上げています。

 

私が見た限りでは誰も触れていない「築地明石町」のきものの着方が私には大いに疑問。

単衣かと思った女性のきものは袷なのに

*長襦袢を着ていない *長羽織着用 *素足に下駄 *しおれた朝顔

ということで調べまくったら、

旧暦4月1日~5月4日(綿入れを脱ぐ頃から端午の節句の前まで)と9月1日~8日(重陽の節句の前まで)に、肌着の上に直に袷を着る素袷(すあわせ)という着方だとわかりました。

秋の素袷の時期を過ぎると、綿入れの季節です。

そこで、素袷の用例を探したところ、出るわ出るわ(引用は新仮名遣い)

   素袷のねまきに羽織をひっかけ・・・・・・・(永井荷風「日陰の花」)

   藍みじんの素袷、十手を懐に・・・・・・・・・(野村胡堂「大盗懺悔」)

   野郎は素袷のすっとこかぶりよ・・・・・・・・(泉鏡花「婦系図」)

   二人とも黒っぽい紬縞の素袷を着、痩せた男のほうは唐桟縞の半纏を

   ・・・・・・・(山本周五郎「ひとでなし」) etc.

挙げられた用例のなかで、確かめられるのは漱石全集第1巻『吾輩は猫である』と、第12巻『夢十夜』。せっかくなので、この2冊を引っ張り出して泥縄式に読みふけりました。

  『吾輩は猫である』十に登場する客、風采のあがらない書生は

  「・・・・・・ともかくも絣と名づけられたる袷を袖短かに着こなして、

  下には襯衣(シャツ)も襦袢もない様だ。素袷や素足は意気なものだそうだが、

  此男のは甚だむさ苦しい感じを与える。・・・・・」と猫クンにこきおろされて

  います。

  『夢十夜』第八夜、床屋で鏡越しに見えたのは

  「・・・・すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。

  色の浅黒い眉毛(まみえ)の濃い大柄な女で、髪を銀杏返しに結って、黒繻子

  の半襟の掛った素袷で、立膝の儘、札の勘定をしている。・・・・・・」という

  伝法な様子の女です。

 

この読み直しで、ワタクシ的にはちょっとした発見がありました。

『吾輩は猫である』の注解に、寒月さんに関して、モデルは五高時代からの漱石の弟子寺田寅彦とあります。で、同じ五高出の祖父と在学が重なるかどうかを確認してみると、残念!祖父の方が6歳ほど年上で、したがって祖父は漱石の教えを受けていないことがわかりました。重ね重ね残念!ついでがてら、祖父はなぜ地元で進学しなかったのかを調べたら、当時は九州には国立大学がなかったため上京せざるを得なかったこともわかって、すっきり。ついでに”旧七帝”の設立年も調べちゃった。東京から名古屋まで半世紀の隔たりがある!

建物などのハードをつくり、教員などのソフトを揃えるにはそれだけお金と時間がかかったということですね。