『小説のストラテジー』 佐藤亜紀 青土社 2010年 第3刷
小説を書いたり読んだりするための”究極の指南書”と帯には書かれています。
後記によると、この本は1999年~2005年まで佐藤亜紀さんが早稲田大学で行った講義をもとに2006年に初版が出版されました。
目次と(私の不十分な)要約
1 快楽の装置 創作と享受における一般的な前提
ヴェロネーゼの大作「カナの婚礼」をもとに、芸術の鑑賞とはどういうものか
ほかの芸術と小説には鑑賞するうえで違いがあるか
作品は、表現する者と享受する者の遊戯的闘争の場である
引用文献:アイスキュロス『アガメムノーン』(久保正彰訳 岩波文庫)
2 フィクションの「運動」 読み手が反応するのは物語ではなく記述である
「作品」とは何か、演劇、映画を含むフィクションに対象を絞る
フィクションとは、記述によって虚構の中で展開される「運動」である
「運動」は小説の快をもたらす
引用文献:アイスキュロス『アガメムノーン』
『アリストテレス全集17』(岩波書店)
『ナボコフ短編全集Ⅱ』(作品社)
3 ジャック・ワージングの困惑 物語にはどのような役割があるのか
ジャックはオスカー・ワイルド『真面目が肝心』の登場人物、
彼が求婚するときに相手の母親と交わす対話・・・・喜劇
ドストエフスキー『悪霊』で
スタヴローギンとシャートフが交わす信仰に関する対話・・・・メロドラマ
(振幅の大きい物語を著者はメロドラマと呼ぶ)
物語の性格が記述に与える影響
引用文献:『オスカー・ワイルド全集』第4巻(出帆社)
ドストエフスキー『悪霊(上)』(江川卓訳 新潮文庫)
4 楽興の時 作者が全てをコントロールできるとは限らない
物語の機能・役割その2
記述は、物語を構成している様々な要素を(これからの展開を含め)表現する
引用文献:ドストエフスキー『悪霊(上)』
5 燭台なしの蝋燭 言葉は本当に通じるか/通じなければならないか
ある言葉が発せられた時、それについて共通のイメージは持てるのか
ある言葉について、それが属した時代・文化圏によって持つ意味
辞書的な意味が分かれば、小説を理解できたことになるのか
哲学と小説の言葉
引用文献:G・K・チェスタトン『ブラウン神父の童心』
(中村保男訳 創元推理文庫)
6 かくて詩人は追放される 小説は哲学上の真を語らない
フィクションは「真」を語ることができない(プラトンの指摘)
フィクションは、二通りの叙述(地の文と、会話・独白の文)がある
引用文献:プラトン『国家』(藤沢令夫訳 岩波文庫)
ホメロス『イリアス』(松平千秋訳 岩波文庫)
7 誰も一人では語り得ない 複数の語り、複数の声
語り手の言葉は聞き手の応答があって成立する
語る(読む)行為は、テキストに対する語り手(読み手)の反応を含む
言葉の様式化(類型化)で、言葉は仮面になる
引用文献:ミハイル・バフチン『小説の言葉』
(伊東一郎訳 平凡社ライブラリー)
『志賀直哉全集』第3巻(岩波書店)
笙野頼子『説教師カニバットと百人のあぶない美女』
(河出書房新社)
8 ディエーゲーシス/ミメーシス 声の様態に関するタクティカルな考察
語り手自身の言葉による総括的な記述=ディエーゲーシス
鍵括弧で表すような他者の声の表現・模倣=ミメーシス
引用文献:デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』
(柴田元幸・斉藤兆史訳 白水社)
ウェルギリウス:『アエネーイス(下)』
(泉井久之助訳 岩波文庫)
ヴォルテール:『カンディード』(吉村正一郎訳 岩波文庫)
ソルジェニーツィン:『収容所群島Ⅰ』(木村浩訳 新潮文庫)
9 単声による肖像 作例一。ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』
語り手による一人称で、ある人物にあてた回想形式の書簡
最も単純で強い単声の語り
引用文献:マルグリット・ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』
(多田智満子訳 白水社)
10 殺人者のファンシー・プローズ 作例二。ナボコフ『ロリータ』
殺人罪で起訴された、犯罪者である在留外国人の語り
引用文献:ナボコフ:『ロリータ』(若島正訳 新潮社)
11 国民作家の悲劇 作例三。笙野頼子『水晶内制度』
架空の国家の住人によって語られる社会対個人
語り手は誰か 語られた内容の信ぴょう性 経過時間
引用文献:笙野頼子『水晶内制度』(新潮社)
12 作品が全て、人間は無 結びに代えて
引用文献:ウラジーミル・ナボコフ/エドマンド・ウィルソン
『ナボコフ=ウィルソン往復書簡集1940-1971』
(中村紘一・若島正訳 作品社)
『エドマンド・ウィルソン批評集2文学』
(中村紘一・佐々木徹・若島正訳 みすず書房)
後記
『バルタザールの遍歴』以来とても気になっている作家です。著作はいつも本屋の棚に並んでいるわけではなく、なかなか手に入れにくい。
特に『吸血鬼』はぜひとも読んでみたいのですが、これがとんとお目にかからない。
図書館で借りるしかないかしら。
作者は、西洋美術史を専攻しただけあって、美術への造詣が特に深いとお見受けしました。
各章いちいち納得ですが、『ロリータ』は10章のお陰で少し近づけたような気がします。
といっても、ナボコフが好きになったわけではありませんが。
読み終わってから何度か感想を書きかけたのですが、巧くまとめられず挫折しました。
そこで、目次とおざなりな要約を並べることでお茶を濁す、ということに。無念!
この講義は受けて見たかったなぁ、さぞかし刺激的な講義だったのではないかと想像します。
理詰めで対象に迫る佐藤さんの文章は、多分に哲学的傾向が強く、きちんと理解していただくにはご本人の文章が一番です。お薦めです。