今どきの議員たちが聞いたら喜びそうな、”わきまえた女房”式部さんの本音が分かるのが

 

本『私が源氏物語を書いたわけ 紫式部ひとり語り』 山本淳子

                    角川学芸出版 2011年 初版 です。

 

ひとしきり、『御堂関白記』を読んで、そういえば、式部さんは同じ出来事をどんなふうに書いていたっけ?と確かめようと本棚から引っ張り出したのが昨日。

あとがきによると、著者が、式部さんが夫を失って打ちひしがれている章を書き始めたのが、3月11日大震災の日だったそうです。なんという符合でしょう。

 

よく云われることですが、『源氏物語』は道長をモデルにした、とされています。

『紫式部日記』と『紫式部集』をもとにして、自身に語らせるという体裁をとった本書では、親しい人との別れが、物語を生むきっかけになったと云っています。

長い物語の展開の中で道長・彰子サロンで見聞したことを取り入れているかもしれませんが、(教養・素養という面からいえば)道長を光源氏のモデルにしたとは思っていませんでした。

そんなことも確かめたかったのです。

 

初めのほうで、しきりに強調しているのが”賢い式部さん”、たいして教えもしないのに漢籍を覚え”男だったら”と父為時を嘆かせています。女が漢籍なんぞをそらんじたりするのは、おぞましく不幸の始まりとばかり、式部さんは”わたくし、なんにも知りません”を通します。

対照的な家庭として挙げているのが、一条天皇の皇后となった定子を育てた環境と、定子の母親の実家のことです。式部さんは”そこそこの身分にありながら娘を(教育して)女官に育てようなどというとんでもない父親”の例として高階成忠をあげています。

並びなき教養人であった成忠(ヘンなやつだと云ってます)は、娘貴子に結婚を勧めず、あろうことか学問を仕込んで円融天皇の掌侍(ないしのじょう)とします。そして貴子は、藤原の氏の長者:藤原兼家の長男の道隆に見初められ妻となります。それについては、”所詮は玉の輿に目がくらんで宗旨替えをした”と、あくまでも厳しい式部さん。

漢文に熟達した貴子と学問を奨励する道隆に育てられた定子は、同じく漢籍に造詣の深い一条天皇に愛されます。そんな才気あふれる一条&定子サロンは人気が高く、定子が亡くなった後も『枕草子』で清少納言がその様子を伝えたものだから、天皇は定子への思慕が収まらず、宮廷でも定子人気はいっこうに衰える気配がない。

彰子に仕えた式部さんは、あったこともない清ちゃん(清少納言)が癪に障るわけですプンプン

世が世であれば、わたくしのほうがずっと身分も高いのに、なんであんなひけらかしの受領の娘ごときにしてやられるのだムキー 

ハハハ、気持ちはわかるけど、自分だって”知識はわたくしの方が上よ!みんなに知ってほしいけど、それじゃみっともないから”って抑えたつもりの自慢と誇りの芽は膨らむばかりじゃないの爆  笑 つきあいにく~~い。

きっと、清ちゃんみたいにスカッと表に出したかったのね。公卿たちとのやり取りにも、相手の教養をはかるようなところがあって、いけずやわぁ。

でもまぁ、ぼやーっとしたお嬢さんというイメージの強い彰子も長ずるにおよんで、なかなかしっかりした中宮に成長されるのも伝わってきて、良い”告白本”だと思います。

道長時代の内情をチラ見したい方にはお勧めです。