『万葉集』講座を受講してから10年くらい経ったでしょうか。初めのころは解釈することに面白さがありました。上代特殊仮名遣い・係り結び・序詞(じょことば)などなど文法上のきまりはそう難しいことではありません。

天皇から市井の人々まで実に多様な歌い手が詠んだ4,500首あまり。

どのような場で詠まれたか、それが表しているのは何か、歌の背景である当時の社会や生活ぶりを知るには様々な記録があります。

 

奈良時代の人口 

平城京:10~20万人 日本の総人口450~600万人

官人数(定数 8300人):8000~1万人  

そのうち五位以上の高級官人:100~150人程度

  「貧窮問答歌」で知られる山上憶良は、遣唐使に派遣された時は42歳で無位

  でしたが大伴旅人と知り合った頃は、従五位下に昇進し筑前守でした。

  右差し従五位下も従五位と大差なく、任官されていなくても年収約1300万円

  貧窮なんてとんでもない!山上憶良は高給取りなのです。

 

当時の官人の年収をざっくり紹介すると

      (『日本人の給与明細』 山口博 角川ソフィア文庫2015年)

  位    官職       年収             定数

一位 太政大臣・閣僚 3億6千万円~4億5千万円   5人

二位   閣僚      1億1千万円            8人

三位   次官       7300万円            30人

正四位  局長       4000万円            12人

従四位            3200万円            32人

正五位  知事       2600万円            17人

従五位  学長       1400万円            60人

  大伴旅人は三位(さんみ)大納言、息子家持は従三位(じゅさんみ)中納言

  という地位で生涯を終えています。

公卿は:

太政大臣、左・右大臣〔公〕と、大・中納言、参議・三位以上の朝官〔卿〕を指す。

親王・内親王(天皇の子ども)や諸王(天皇の親戚)は四位以上の身分です。

三位までは正・従に分かれ、四位~八位は正・従がさらに上・下に分けられていました。

八位の下には、大初位上・下、少初位上・下が配されていました。

☆全国から徴用された下級官人 

仕丁(4000人)・衛士(2000人)・防人 日当:10文 年収:2000文

その他にパートタイムの仕丁・衛士が6000人いました。

☆報酬と物価

単純労働 日当:1文  

穀類6升(現行の2升4合):1文  

布(苧麻?)1丈:5文

 

官人は朝7時までに登庁し、仕事は昼まで。下級官人は町はずれに住んでいるため、通勤は片道1時間。官庁の門は定刻で閉まるので、遅刻するとたいへんガーン

平城京(下京を除き東西4.3㎞×南北4.7㎞)や平城宮(東西1.3㎞×南北1㎞)の復元図を見ると、貴族や公卿の邸宅は宮殿周辺にあり、下級官人は4㎞以上の道を駆けつけなければならない。ましてや、通い婚ですから妹(いも=妻)の家から出勤するときに”もう少し一緒にいたい”なんて、後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しみつつ、歌のやり取りをしている場合じゃない走る人あせる

字の書ける下級官人は”刀筆の吏”(とうひつのり=下っ端役人、小役人)と呼ばれながら、木簡や紙にせっせと記録を写していました。

正倉院文書によると、

こうした官人の日当は7文で、この金額は、彼らが記録する紙10枚と同じです。

ちなみに筆記用品は

凡紙10張:5文 色紙1枚:2文  

凡墨10丁:15文 中墨1丁:10文 上墨1丁:30文

兎筆1管:40文 鹿筆1管:2文(安っ!鹿ならたくさんいるから?)

このほか筆1本:50文/60文とか、墨1丁:50文などの記載もあります。

これらはおそらく輸入品で、光明皇后が臨書したことで有名な王羲之の「楽毅論」はこのような高級品を使ったのではないでしょうか。(「楽毅論」は中国では逸失し、日本では皇后が臨書していたおかげで、今その筆跡を幾分かでも覗うことができるのです)

 

天平6年(734年)には畿内・七道大地震(推定M7 生駒断層直下型)が起きてその余震が続き、疫病(天然痘)が繰り返し大流行して労働人口が減り、凶作・不作にみまわれ飢饉が頻発し、米(稲)価は高騰します。

下級官人はますます困窮の度合いを深めたのではないかと思われます。

天然痘の大流行時には、栄華を極めた藤原家の4兄弟をはじめ多くの命が奪われ、首都機能が失われたりもしています。

こうした厳しい状況の中で、初々しい恋の歌や焦がれる思いを残した万葉人の一途な心にほろりとします。