『アウシュヴィッツの図書係』に登場する家族収容所や子ども棟(31号棟)の住人は、テレジン収容所からの移送者です。

ナチスが、収容者たちが快適な環境で過ごしていることを国際赤十字などに宣伝するために、テレジンでは偽りの日常を記録したりしています。

(テレジンに倣って、アウシュヴィッツでもほかのバラックとはかけ離れたシステムの家族収容所や子ども棟が、一般棟とは離れた場所に作られ宣伝に利用されました)

テレジンでは、自治組織による運営など《ほかの収容所では考えられないくらい(地獄の手前程度に)良い生活だった》上、図書館までありました。

また、許可された子どもの家の活動は歌とゲームくらいでしたが、監視の目をかいくぐって教師たちの工夫による教育が行われていました。

その一つが美術です。美術を指導したのはバウハウスで学んだフリードル・ディッカー・ブランデルで、ウィーンとベルリンで活躍した芸術家でした。彼女はナチスの台頭につれて活動の場を失い、プラハへ移住しますが、そこへもナチスが侵攻してテレジンへ送られます。

1942年テレジンに収容される時、フリードルは自宅にあったありったけの画材を収容所にもちこみました。

子どもの家の絵画教室ではすぐに材料が払底し、教師たちはナチスの事務所の屑籠に捨てられたあらゆる紙を集めるようになります。

今残されている「テレジン収容所のこどもの絵」は周到に隠され、書類を焼き払ってナチスが撤退したあと偶然見つけられたものです。

4000枚におよぶ絵と、一緒に隠されていた詩は二つのトランクに入れられ、プラハのユダヤ協会に持ち込まれますが、戦後の混乱のさなか、協会の地下室に置かれたままになり、’60年代に入ってからようやく発見されます。

この絵が記録として凄いところは、ほぼすべてに名前が書かれており、テレジンから移送後の追跡が行われたことです。

絵を残し、1943年アウシュヴィッツに移送された子どもの中にエディタ・ポラホヴァがいました。図書係のディタです。

(テレジンでの経験が、毎日本をどこに隠したら見つからずに済むかという工夫を生んだのでしょう)

彼女は、1991年「テレジン収容所の幼い画家たち」展開催時に招待されて来日したそうです!

(ディタは、黒い影のような教会の絵を描きました)

 

私はベルリンの壁崩壊の1年前、1988年夏に一人でプラハを訪れています。

ブルタワ川に近いユダヤ人街ヨゼホフにある儀式の家(←こんな名前がついていたとは知らなんだ。石造りの丸い塔のある家、当時博物館的な役割だった)で、「テレジン収容所のこどもの絵」を見ました。

ボロ裂のような布でつくられた人形や、廃材を利用したおもちゃなども狭い階段脇に展示されていたのが印象に残っています。

今は子どもの絵はピンカス・シナゴグで展示されているのですね。

壁崩壊後、経済的に落ち着いてきたからか、今は、私が訪ねた時とはことなり美しく変わったようです。