「お薬を止めてみて、様子を見ましょう」


突然の主治医の言葉に、私はちょっときょとんとして、そしてふっと力が抜けた。


長かった、本当に長かった。

三歳過ぎから飲み始めた睡眠薬。

私の中で、ぼんやりとした目標だった18歳までの断薬。

「何とか18歳までに断薬出来ないかな。

一体、いつまで飲むのだろう」

突然何の前触れも無く、私の目標は達せられた。


片道一時間掛けて、幼き息子の手を引いて、何度も通った児童精神科。

こだわりが強くて、途中の駅が気になると絶対にこの駅で降りる、と言って聞かないから、私はいつも予約時間よりも大分早く家を出た。


駅のエレベーターのボタンを自分が押さないとパニックを起こして泣いて吐くから、息子が一番前になる様に、後ろに並んでいる人達に先に行って貰っていた。


パジャマでないと出掛けられないこだわりの時は、パジャマのまま長靴のまま電車に乗せた。



この日々の事を、貴方は何も知らないでしょうね。私が何度話しても、訴えても聞いていなかったから。



「こんな小さい子に薬なんて虐待よ」

そう吐き捨てた貴方のお母様は、連日寝られなくてパニックを起こす小さな子の事も、朝方四時過ぎまでこの子を抱きしめながら泣いた私の事も、理解しようともしなかった。



「この子と一緒にもう消えてしまいたい」

泣きながら、私が夜中の児童相談所に電話をしていた時。貴方は別室でぐっすり眠っていた。

貴方は一切、本当に何も自分の生活を変えなかった。



小学校に入学して、この子は本当に落ち着いたけれど、お薬が無いとやっぱり眠れなくて、病院に通っていたある日。


「ねえ、何でうちはこの病院に行くの」

一度だけ尋ねたあの子の問いに、私は上手く応えられなくて、それから一度もあの子は私に尋いて来なかった。



貴方は、息子がまだお薬を飲んでいる事も、それが何の薬かも、薬の名前だって何も知らない。

二人で病院に行った事など、無いのだから。

今何にこの子が困っていて、どうしてあげれば良いか悩んだり、学校に相談をした事さえ無いのだから。

私の育児を助けてくれたのは、一番近くにいた貴方ではなく、保育園の先生や療育の先生だった。



「化粧をして、病院に行くのやめれば。

もっとやつれていた方が、助けて貰えるんじゃねえの」


薄ら笑いを浮かべながら、そう吐き捨てた貴方には、決して決して分からない。


「大変な子だから、お母さんも老けちゃって。可哀想に」

そんな風に見られたくない。見られてたまるか。

そんな私の下らないちっぽけなプライドが、すぐにぽっきり折れそうな心を、必死に支えていた事など、貴方なんかに決して決して分からない。


もう貴方には、期待なんかしない。

それでも、近所のパパが子供とキャッチボールをしている横を、家族で庭で遊んでいる横を、笑顔で挨拶して通る私の隣で、あの子が決まって俯く事など、貴方は知らないし、きっとどうでも良いでしょう。

息子の俯く顔を見る度に、とっくに諦めた筈の私の胸の中の黒い感情が、インクの染みの様に染み出して、心を黒く黒く染め上げる。



あの子は、私だけの大切な子。

だから、断薬できた事も、それが私の目標だった事も、お前なぞに決して教えてはあげない。


「そうなんだ。良かったね」

他人事みたいに言われたら、きっと私は怒りで目眩がしてしまうから。


長かった、本当にあの子はよく成長してくれた。

夜の部屋、私は強く美顔器を頬に押し当てる。

これまで護って来た、私の下らないちっぽけなプライド。

だけれど、折れそうな気持ちを支えて来た、ちゃちなプライド。


夜の部屋、私は一人でひっそり祝杯をあげる。

私だけが知っている、大切な記念日。

私と息子だけの、大切な大切な断薬記念日。