チーズが死んだ。
幼男子が、保育園の年長だった時の7月。
茹だるような暑さの中、ドン・キホーテの前で、金魚すくいをやっていた。
何匹も掬う隣の親子の横で、どんくさい母子は一匹も掬えず、バイトのお兄ちゃんから一匹ずつおまけの金魚を手渡された。
「お祭りの金魚だから、すぐに死んでしまうだろう」そんな私の予想に反して、彼らは元気に成長していった。
幼男子が、二匹の金魚につけた名前は
「お肉とチーズ」
大きい子がお肉で、よく喧嘩に負けているのがチーズ。
一年後の引っ越しも、私の腕の中で電車に揺られて、一緒にお引っ越し。
「あの時の金魚で、まだ元気な子は少ないよ」息子とそんな会話を交わした。
そしてマダオが「そんなの、トイレに流せよ」と吐き捨てた台詞も、私は多分忘れない。
引っ越し先でも、彼らはすくすく成長し、小さい鯉くらいの大きさにまでなった。

いつの間にか7年の歳月が流れ、小学6年生になった息子と、そんな言葉を交わした。
一昨日の朝、チーズが急に斜めになって泳いだり、苦しそうに口をパクパク開けるようになった。
「もう長くないな」
そう思った私は、最期まで見届けてやろうと、じーっとじーっとチーズを見つめた。
昨日の朝は、体が斜めになりながらも、必死で餌を食べていた。いつもはつついて意地悪をするお肉も、チーズが弱ってからは何もしなくなった。
「ねえ、こんなになってまで生きているの。
楽にしてやろうよ」
夏期講習から帰宅した幼男子は、体が折れ曲がり、苦しそうにヒレを動かすチーズを見てそう言った。
「最期まで見届けてあげよう。必死に生きているこの子の生を、私は勝手に終了させられない」
そう言いながら、だから安楽死の議論は進まないのか、とぼんやり思った。
「いつも魚を食べているのに、その魚とチーズは何が違うの」
「大切に想うという事は、それが自分にとって、かけがえのない宝物になる事だと思う。
幼男子が、ママにとって特別大切な男の子のように、ラテやメルも特別大切なハムスターやウサギでしょ。
だから、お肉とチーズも特別大切な金魚なの」
「ふーん、でも苦しそうで可哀想だよ。
早く楽になって欲しい」
今朝起きると、チーズは全く動かず、水面に漂っていた。
チーズ、私の特別大切な金魚になってくれて有り難う。
最期まで必死に生きる姿を、幼男子に見せてくれて有り難う。
この狂気じみた小6の夏を思い出す度に、私はきっと君の事を思う。
もし良かったら、またうちにおいでよ。
有り得ないほど、どんくさい母子はいつでも君を待っているから。