相生市矢野町瓜生地区の山林
岩窟は幅7.7メートル、
高さ約5メートル、
奥行約4メートルで、
その中に釈迦如来像を中心に、
文殊・普賢両菩薩及び
十六羅漢像が左右に並ぶ、
釈迦像を中心に、 文殊菩薩や
普賢菩薩、十六羅漢像が並ぶ
表情豊かな仏様です。
この石仏は真言宗の山伏の作
約400年余前の室町時代に
彫刻されたと推定されます。
六世紀ごろ朝鮮から渡来した
僧恵弁と恵聡の作とか、
中世の豪族・赤松氏の居城の
一つ感状山城跡に近いので、
武士を慰霊するため建立された
など諸説ありますが、
詳しいことは分かっていません。
磐座好きには堪らない場所で
磐座の中を通り抜け
階段を登った先にある十六羅漢像
神聖な雰囲気があります。
瓜生羅漢石仏
うりゅうらかんせきぶつ
兵庫県相生市矢野町瓜生
欽明天皇の時代(629~571年)に、朝鮮の百済より戒律を伝えるために、恵弁と恵聰という2人の僧が日本にやって来ました。
大連の物部守屋の父である尾興は、播磨国に流しました。そこで、2人は、矢野の奥に庵を結んで住むようになりました。
3年後、2人は許されて、都に帰りました。しかし、物部尾輿の子である守屋は、それを認めず、大和国に流しました。
その後、還俗させて、恵弁を右次郎、恵聰を左次郎と名づけさせました。
今度は、播磨国の安田の野間にある牢に閉じ寵められた2人は、牢番が与えた少しの栗も食べず、ひたすらお経を唱えていました。
牢番は、このことを物部守屋に報告しました。守屋は「これは私の呪っているのだ」と言って、より一層監視を厳しくしました。
2人は、「それならばこれからは、お経も唱えないし、物も言わない」と言って、無言を貫きました。それで「右次、左次とは物を言わない」という諺が生まれました。
瓜生にある羅漢の石仏は、欽明天皇の時に、矢野に流された恵弁と恵聰の2人が瓜生の岩窟入り、すべての人を仏に引き合わせようとの願いから石仏を彫ったといわれています。
石仏の数は30体ばかりで、完全でない石仏もたくさんありました。数が多いので、五百羅漢といいます。
弘法大師が全国を遊行している時、ここを訪ねて石仏を刻んだとも言われています。
釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の3像を中心に、左右に十六羅漢が配置され、釈迦の説法に聴き入る姿とか、苦行瞑想する姿であるとも言われています。
時代が下ると、羅漢の石仏は散失して、釈迦如来・文珠菩薩・普賢菩薩・如意輪観音菩薩の4体と十六羅漢の合わせて20体が残っています。
別な説によると、敏達天皇の時代(572~585年)、高麗僧の恵便が日本にやって来て、矢野庄にひっそりと暮らしていました。
ある時、蘇我馬子が朝鮮の百済より石像の弥勒菩薩像を輸入して、石川の屋敷に安置して、播磨の僧侶に仏像の世話をさせました。この石像が羅漢の石仏と言われています。
江戸時代の記録である『但馬道之記』には次の様に書かれています。
龍野を過ぎて小犬丸という所から右の山手にかかると、三濃村、瓜生村という2村の間の谷に石像の五百羅漢があります。谷間左右の石に彫り付けています。旅の僧の話に、「筑紫の羅漢と見比べても、劣ってはいない。筑紫の石像は有名だが、ここの石像は近国の人もほとんど知らない。不思議なことだ」と言ったといいます。
(相生の伝説のH Pより)
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Profile 神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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