織田、豊臣、徳川を始め多くの戦国武将の信仰を集めた/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。


阿弥陀ヶ滝から県道314号
白山歴史街道を大野市方面へ
県道127号に入った所で右折
暫く進むと石徹白川と
朝日添川の合流する場所に
白山中居神社がある。




朝日添川からの流れを
伊邪那岐神が天の橋立峠から
この舟岡の地を眺められ 

朝、夕日の輝き、
清流隈筥川の辺、
長走りの瀧から短瀧の
清き流れの間、
背には白山の南正面より
続く雄大なる木々の森が茂って
素晴らしい処

この美まし地(ところ)に
私を祀るようにと仰せられた
そう伝わっています。

昔、山中の古喜美(こきび)、
名を武比古(たけひこ)が、
正月15日に、
夢のお告げを授かり
ご本殿を建てたのが始まりと
伝えられています。







鳥居をくぐると
見事な杉の間を縫うように
参道が作られて
進むに連れて空氣が変わる
橋を渡り聖域に入ると
更に厳かな静寂に包まれ
川のせせらぎだけが耳に滲み入る
境内に入ると時間が止まり
柔らかで湿った空氣が
まるで水の中を優雅に歩くような
そんな感覚になる。
山深い山間にある
信仰の厚い神社では
幾度が経験したような感覚。
静と動を肌で感じることができる
柔道や合気道などでは
力の強い相手を技によって
倒す術を教わります。 
「柔よく剛を制す」と言って、
優れた技を以って
力を制するのが極意される
そんな感覚なのかもわかりません。
戦国武将の名だたる面々が
挙って信仰した由縁がそこに
あるように思います。
見るもの全てが美しく
感動的な神社でした。








建築や彫刻も必見で
福井県の永平寺町
大工棟梁玄之源左衛門が
建築を担当し、
彫刻は同地の後藤廉之助と
諏訪の立川和四郎二代冨昌、
昌敬の合作であります。
冨昌は京都御所の
御門の彫刻を完成して即、
白山中居神社の彫刻を
最後の作品として没したと
言われています。
「七五歳立川冨昌(花押)」
この栗穂に鵜は、鵜の優しく、
強い家族愛を見事に表現された
優しさ溢れる類稀なる名作
昌敬の海老虹梁の龍、
脇障子の獅子は力強く
正面扉の菊花紋、両脇屏風、
両左右の浜千鳥、梅、欄、
椿に小鳥、水と鴦鴛の井波彫刻は
自然の豊かさを穏やかに描き
静と動、強さとしなやかさを
比類なき美しさに表現されている






白山中居神社
はくさんちゅうきょじんじゃ
岐阜県郡上市白鳥町石徹白

主祭神
菊理媛神、伊弉諾尊、伊弉冉尊


白山神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国からの道は、白山中宮長滝寺(現長滝白山神社、長瀧寺)から、越前国の白山中居神社をとおり、白山へと向かっている。
鎮座地は石徹白川左岸、支流である宮川との合流部に位置し、参道に橋が懸けられている。

言い伝えでは、景行天皇12年の創祀で、雄略天皇9年に護国鎮護のために剣を奉納したと伝えられている。養老元年(717年)に泰澄大師が白山中居神社の社域を拡げ、社殿を修復したという。平安時代から江戸時代初期にかけて、藤原能信、藤原秀衡、今川義元、柴田秀勝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、数多くの武将の信仰を受け、江戸時代には、越前国大野郡石徹白村が白山信仰による白山へ向かう巡礼者への手助けを行い、村人は、白山中居神社の社人、社家となり、無税、帯刀御免の身分とされていた。

宝暦4年(1754年)から8年にかけて石徹白騒動が発生。白山中居神社神職(神主)の上村豊前が郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門と結託し、神頭職(社領を統治する役)杉本左近と村民約500人を石徹白村から追放する。同時期に発生した郡上一揆とともに幕府評定所の判決が出され、老中の本多正珍が免職、若年寄本多忠央が領地没収、郡上藩藩主金森頼錦が領地没収、お家断絶などの大規模な処分が行われる。

安政3年(1856年)に現本殿が再建された。

大正10年(1921年)に福井県の県社になり、昭和33年(1958年)、石徹白村が福井県から越県編入して岐阜県郡上郡白鳥町石徹白となって岐阜県の神社となり、同37年、本殿の彫刻が岐阜県重要文化財に指定され金幣社になる。

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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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