JR山陰本線の豊岡駅から
出石方面行バスで約25分の出石町
鳥居橋下車、東へ徒歩10分。
出石川盆地の中心にあって、
三方を自然豊かな山々に囲まれ
山陰の小京都と喩えられる
静かな町に出石神社がある。
玉垣で囲まれた老樹の茂る
禁足地がある。
神苑に清水をたたえ、
出石の名もここから由来する。
但馬国一の宮に位置づけられ、
地元では「いっきゅうさん」の
呼び名で親しまれています。
ご祭神は天日槍
泥海だった但馬地方を、
瀬戸の岩山を開いて平野にした
但馬開発の祖神とされる神様。
天日槍命を祭神とし
土木関係者から信仰を集める
新羅の国の王子して生まれた天日槍
妻を追って日本に渡来し、
そのまま但馬国に留まり
土地を拓いたと伝承されています。
天日槍が日本に渡るときに
携えたという八種の宝がともに
祀られています。
出石神社では毎年5月5日、
その年に生まれた男児の
健やかな成長を願う節句行事
「幟まわし」が行われます。
揃いの衣装をまとった
宮内少年会の子供らが、
竹ぼらの音に合わせて
様々な絵柄ののぼりを立て
まわします。
天日槍が泥水の底にあった
但馬地方の干拓に成功し、
大きなのぼりを立てて
宮内に帰還したときの
道中姿を模したものだと
伝わる、出石ならではの
勇壮なお祭りだという。
妻を追って来日したとされますが
天日槍伝説は古典史料における
代表的な渡来伝承になる。
ただし一般には、
1人の歴史上人物の説話ではなく、
朝鮮系集団の渡来を
アメノヒボコという始祖神に
象徴した説話と考えられている。
その中では特に、
「天日槍」という神名を
「日矛(日槍)」という祭祀具の
人格化と想定し、
大陸系の日神信仰を持つ
渡来系一族(出石族)の伝承と
見る説が知られる
播磨と淡路島から近江国・若狭国
但馬国へと朝鮮系集団の
文化の伝承が伝わるという
見方がある。
また『古事記』応神天皇記では、
天之日矛は阿加流比売神と結婚、
ある時に天之日矛が奢って
阿加流比売神を罵ると、
女は祖国に帰ると言って
天之日矛のもとを去りました。
天之日矛は妻が逃げたことを知り、
日本に渡来しましたが
浪速の渡の神が遮ったため
入ることができなかった。
そこで再び新羅に帰ろうと北上
但馬国に留まり前津見を娶り、
多遅摩母呂須玖を儲けた。
そして多遅摩母呂須玖から
息長帯比売命(神功皇后)に至る
系譜を伝える
つまり神功皇后の祖先にあたり
神功皇后及び応神天皇を祭神とする
八幡宮は伊豆志八前大神に
由来するのではないかと
推測されます。
それにしても神功皇后
三韓征伐にて祖先の祖国を
攻めるとは何とも皮肉な
伝説ですね。
素晴らしい神社でした。
出石神社
いずしじんじゃ
兵庫県豊岡市出石町宮内
但馬国一宮
主祭神 伊豆志八前大神ほ
天日槍命
伊豆志八前大神
(いづしやまえのおおかみ、出石八前大神)
天日槍命(あめのひぼこのみこと)
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は8座[2]。享禄5年(1532年)の祝詞では、祭神を「正一位出石大明神、二位の后の宮、七所の王子」とする。現在の出石神社では、上記のように天日槍が将来したという八種神宝の神霊を「伊豆志八前大神」として奉斎し、これに天日槍の神霊を併祀する形を取っている。
兵庫県北部、出石盆地東縁の山裾に鎮座する神社である。出石盆地南縁の現在の出石市街地からは北方約2キロメートルに位置するが、かつては出石神社付近が周辺一帯の中心地であり、現在の出石市街地は天正2年(1574年)に山名氏が居城を此隅山城から有子山城(のち山麓に出石城)に移してからの発展になる。
この出石神社は、『古事記』や『日本書紀』に記される渡来新羅王子の天日槍伝説の中心となる神社で、現在の祭神には天日槍が将来したという八種神宝の神霊および天日槍自身の神霊を奉斎し、地元では出石の開拓神としても信仰される。古くから但馬国(兵庫県北部)では随一の神威を誇ったほか、中世・近世には但馬国の一宮にも位置づけられた、但馬地方では代表的な古社になる。
社殿は大正3年(1914年)の再建で、豊岡市指定文化財に指定されている。また社宝として、明治14年(1881年)寄進の脇差(国の重要文化財)のほか、歴代領主の甲冑や古文書などを伝世し、現在はこれらの多くが文化財に指定されている。
旧国幣中社(現、別表神社)。祭神、出石八前大神・天日槍命。社伝によると垂仁天皇の時、天日槍命が来朝し、当地を開拓したので、その徳を敬慕し、命が奉持していた八種の神宝を八前大神として祀った。八種神宝とは、玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡であり、このことは既に『延喜式神名帳』にも八座の神として明記され、名神大社となっている。更にこれより先、天平九年(七三七)神戸租調稲およそ一六八〇束を充て、承和一二年(八四五)七月に従五位下となり、貞観一六年(八七四)三月には正五位上に叙せられている、但馬国一宮として崇敬されて来た当社であるが、戦国時代に入ると、天正年間(一五七三-九二)豊臣氏のために社領を没収された。江戸時代には出石城主歴代の尊崇をうけ、小出、仙石両氏が社殿を造営した。本殿三間社流造、檜皮葺、本殿の前面に切妻造の幣殿が連なり、更にその前に舞殿形式の拝殿(入母屋造平入)が連なっている。社宝としては、重文指定の脇差一振(南北朝時代、銘但州住国光)がある。例祭一〇月二〇日、その他御年花祭(おはなびらまつり)が一月二二、二三日に行われる。
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Profile 神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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