太閤秀吉が催した「醍醐の花見」
あまりにも有名なお花見のお寺、
しだれ桜が見事な霊宝館をはじめ
三宝院前や国宝の五重塔を背景に
咲く花姿も見事です。
桜の馬場の桜並木を歩いて
秀吉心地のお花見を楽しむ
そんな季節は目の前です。
折しもコロナウイルスの影響で
各地のお花見は禁止になり
華の季節は来年まで持ち越し
そんなことになりそうです。
とは言え四季折々の美しさを凝らした
お庭の風景はお参りされる人達の
心を和ましてくれるチカラがあります。
豊臣秀吉が贅を尽くして再建した、
醍醐寺 三宝院。
当初は醍醐寺の子院として
創建されましたが、
後に醍醐寺の本坊的な
役割を担うようになった寺院です。
平安時代の寝殿造りを思わせる
優雅な佇まいを取り入れた表書院
豊臣秀吉が自ら設計した
華麗で豪華な三宝院庭園
この庭園は池泉回遊式の庭園
船で色々な場所に移動したり、
歩いて橋を渡ったりしながら
庭を楽しめるように
設計されています。
それはつまり、
360度どこからでも見られる
どこから切りとっても
表になるように設計されている。
秀吉はこの庭を造るにあたり、
全国から名石を集めているのですが、
中でもすごい経歴のある石が、
自身で持ち込んだ藤戸石という石。
天下を治めるものが所有する石と、
室町時代から歴代の権力者に
引き継がれた「天下の名石」
それは元々は聚楽第の庭に
置いていたそうですが、
この庭を造るにあたって
運び出され、「主人石」として
ここに置いたのだそうです。
藤戸石の左右横の小さな石は
阿弥陀三尊を表している
この池を挟んでこちら側が、
人間が住んでいる欲や
煩悩にまみれた世界「此岸しがん」で、
あちら側が阿弥陀様のいる
極楽浄土で欲や煩悩から
解放された世界「彼岸ひがん」を
表しているという見方がある
実際、藤戸石の斜め後ろには、
豊臣秀吉の死後、稲荷に変えて
祀った「豊国稲荷大明神」が
祀られている宮があります。
醍醐寺三宝院庭園
だいごじさんぽういんていえん
京都府京都市伏見区
醍醐寺の院家である三宝院の庭園であり、1952年(昭和27年)に国の特別史跡および特別名勝に指定された。
874年(貞観16年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が笠取山に醍醐寺を創建した。山頂付近は「上醍醐」、山麓一帯は「下醍醐」と呼ばれ、堂塔伽藍が立ち並び繁栄した。三宝院は1115年(永久3年)、醍醐寺第14代座主勝覚が開いたもので、歴代の座主を輩出し、1428年(応永35年)以降は三宝院主が醍醐寺座主の地位を独占した。しかし醍醐寺は1467年(応仁元年)に始まった応仁の乱の兵火に巻き込まれ、三宝院を含む多くの建物が焼失し、一帯は荒廃してしまう。
荒廃した醍醐寺を復興したのが、1576年(天正4年)に第80代座主の地位に就いた義演であった。義演は豊臣秀吉の手厚い庇護を受け、1598年(慶長3年)の醍醐の花見を醍醐寺の金剛輪院を中心として執り行った。また、金剛輪院に「三宝院」の名称を受け継がせた。これが今日に伝わる三宝院である。
三宝院庭園は、この醍醐の花見に際して、豊臣秀吉が自らが基本設計を行ったものである。作庭は醍醐の花見が終わった4月から始められ、その年の8月に秀吉が死去した後は義演の指導のもとで続けられた。義演は秀吉の基本設計をもとにさらに構想を発展させ、また当時一流の庭師を作庭に参画させた。庭師の中には「天下一の石組の名手」と称された賢庭もいた。作庭は義演が亡くなる1624年(元和10年)までの27年間にわたった。
当初、三宝院庭園は表書院から眺めるための鑑賞式庭園として設計されたが、義演の死後に庭園内に茶室が置かれ、回遊もできるように造り変えられた。庭園の中心を占める池には「亀島」「鶴島」が配され、橋が架けられている。正面に据えられている「藤戸石」は、元々は管領家の細川氏の邸宅にあったもので、秀吉が聚楽第から運ばせたものである。背後には水の音が変化するようにしつらえられた三段の滝石組が造られている。三宝院庭園は、安土桃山時代の華やかな雰囲気を今日に伝える日本庭園として貴重なものであり、1952年(昭和27年)に国の特別史跡および特別名勝に指定された。
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Profile 神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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