怨霊となり長岡京から平安京に遷都させた早良親王を祀る、崇道天皇社/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。






奈良公園や
古くからの町並みが残る
奈良町の主要の観光ルートから
南にやや離れた位置にあり、
市立奈良病院の西に位置し
奈良町エリア・京終エリアの中心部
から10分もかからない立地で
散策の途中に気軽に立ち寄れる
そんは場所に崇道天皇社がある。




崇道天皇は
奈良市の南東部の崇道天皇陵に
埋葬されている皇族で
生前の名を「早良親王」と言い、
藤原種継暗殺の謗りを受け
流罪とされ非業の死を遂げた
悲劇の皇子で
その祟りを鎮めるために
死後崇道天皇と追称されました。
そして後世に「怨霊伝説」の
象徴的存在として
語り継がれるようになった皇子
崇道天皇の代表的な神社です。

町家と向かい合う形の境内は
とにかく細長く伸びている
鳥居から本殿付近を
すぐに見渡せないほどの
参道の長さです。
参道に入ると突風が吹き
まるで怨念の力強さを感じました。
拝殿で柏手を打つと
ピタッと突風は止み
穏やか空氣につつまれました。

今年はコロナウイルスの
世界的な大流行ですが
早良親王の無念は怨霊となり
近畿地方に天然痘を流行らしたとか
科学的根拠の薄い時代だからこそ
様々な災いは怨霊伝説の
格好のネタになったのでしょうね。












崇道天皇社
すどうてんのうしゃ
奈良県奈良市西紀寺町

紀寺天王とも呼ばれ、かつては璉珹寺(紀寺)の鎮守として祀られた。同寺東北に鎮座。薬師堂町の御霊神社とともに南都二大御霊社とされる。


主祭神
崇道天皇(早良親王)
祭神の崇道天皇こと早良親王は、光仁天皇と高野新笠の間に生まれた。兄の山部王は後の桓武天皇にあたる。
光仁天皇は、第49代の天皇で、次期天皇となる皇太子には、井上内親王との間に生まれた他戸親王が立てられました。
ところが、宝亀3年(772年)に井上内親王が、光仁天皇を呪詛したという罪で皇后を廃され、その子である他戸親王の皇太子の地位も剥奪されます。
その後、井上内親王と他戸親王は、幽閉先で非業の死を遂げました。
他戸親王の皇太子の地位が廃され、新たに皇太子となったのが、早良親王の兄の山部王で、彼は天応元年(781年)に即位し、桓武天皇となりました。
そして、兄の桓武天皇の即位により、早良親王は天応元年(781年)皇太子となりましたが、藤原種継暗殺に連座した疑いを受け延暦4年(785年)に廃嫡された。淡路国に配流の途上、49歳で薨去。淡路国にて葬られたが、怨霊を鎮めるために崇道天皇の諡号を追贈し、御骨は大和国八島陵に改葬し、また本社の祭神として祀ったとされる。

歴史
平城天皇の大同元年(806年)の草創と伝わる。
五條市の藤井家に蔵される長禄2年(1458年)の「霊安寺御霊大明神略縁起私記」によると、『又奈良ノ南里ノ紀寺ノ天王ト申スモ、崇道天皇ニテマシマスナリ』とあり、怨霊を鎮めるために祀った御霊神社の一つである。南都八所御霊の一座として御霊会が行われる。

「大乗院寺社雑事記」の応仁2年(1468年)10月15日の条には、春日大社の末社であり本地は弥勒菩薩であると記されている。


国重要文化財である本殿は、桃山時代創建と推定される春日若宮本殿を、元和9年(1623年)に移建したものである。現在は南面するが、1875年(明治8年)までは鳥居、表門をくぐると真正面の向き、すなわち西向きであった。

境内社は祓戸社・天満宮・稲荷社の3社で、神社明細帳(明治24年)によると、春日社も他の二社とともに独立してまつられていたが、現在は祓戸社と相殿になっている。

神楽殿は安政2年(1855年)の再興で、斎館は1940年(昭和15年)の竣工。神輿庫には享保2年(1717年)ごろ修理された古い神輿があり、秋祭礼に用いられる。

この他、1520平方メートルほどの広い境内には、春日見の腰掛石やあちこちに巨木が残っている。


崇道天皇の怨霊伝説
桓武天皇は長岡京に遷都することを望み、784年に平城京から都が移されます。新しい都である長岡京は、その造営のほぼ全てを桓武天皇からの信任が非常に厚かった藤原種継に委任されていました。

延暦4年9月23日の夜。仕事熱心な種継は、現場の見回りをしていました。と、その時、どこからともなく1本の矢が飛んできて、種継に命中します。藤原種継暗殺事件の犯人は、当初はわかりませんでしたが、捜査を続けていくうちに大伴継人(おおとものつぐひと)が容疑者として逮捕されました。
そして、暗殺事件には、早良親王も関与していたと疑われ、彼も逮捕されてしまいます。
早良親王は、皇太子の地位を剥奪、乙訓寺に幽閉され、淡路島へ流されることとなりました。
しかし、早良親王にとっては、暗殺事件など身に覚えのないこと。
彼は、寺に閉じこもって食を絶ち、自分が無実であることを訴えます。

しかし、その声は桓武天皇には届かず、早良親王は恨みを残してこの世を去りました。
なお、早良親王が藤原種継暗殺事件に関与したとされたのは、我が子の安殿親王(あてしんのう)を皇太子にしたかった桓武天皇が、早良親王を邪魔と思い排除したかったからだと伝えられています。早良親王は濡れ衣を着せられたことになります。

早良親王は没後、怨霊となって桓武天皇とその周囲に襲いかかったという。
786年、寵愛していた后の藤原旅子の母が亡くなります。
788年、寵愛していた藤原旅子が朝起きると隣で亡くなっていました。
790年にはまず、母親である高野新笠が宮中で倒れて亡くなります。
そして、皇后である藤原乙牟漏(おとむろ)、女官である坂上又子が朝起きると隣で亡くなっていました。わずか数年で、桓武天皇の身近な5人もの人間が亡くなったのです。
そして、祟りは息子や民衆にも降りかかります。

皇太子の安殿親王の両耳が聞こえなくなってしまい、近畿地方で天然痘が流行し、長岡京では2度の大洪水が発生、その後には日照り続きになり、都を飢饉が襲いました。

 陰陽師によって、災厄の元凶が早良親王の祟りであると悟った桓武天皇は、遷都してからわずか10年で長岡京を離れることを決意します。

桓武天皇は、早良親王の怨霊を徹底的に排除するため、風水・占い・迷信などを用いて、四神相応の地(玄武・青龍・朱雀・白虎、4つの神に守護された土地)に都を作ります。
それが、794年に遷都された平安京だったのです。

北には玄武の船岡山、東には青龍の鴨川、南に巨掠池、西に山陽道・山陰道。これが平安京の四神です。
さらには、スサノヲノミコトを祀った四つの大将軍神社を都の四方に配置し、上御霊神社と下御霊神社に早良親王自身を祀り、鬼門とされる北東の方角には、幸神社・上賀茂神社・下鴨神社・貴船神社と、これ以上にないほどの配置にしたのです。

平安京の名の由来も、「何事も起こらないように・・・」という願いを込めて付けられたと伝えられています。

こうして造られた都、平安京も残念ながら、早良親王の怨霊を排除できませんでした。

遷都後の797年には仮宮殿で火事が起き、翌798年には清涼殿の門に雷が落ちて焼け落ち、799年には朱雀門が完成した翌日に雷が落ちて焼け落ちるという災厄が続けて発生しています。
そして、800年には富士山の噴火が1ヶ月以上続いたという記録も残っています。

桓武天皇は早良親王の怨霊を鎮めるため、800年に追号という形で早良親王に「崇道天皇」の名を送り、早良親王が天皇に即位した、ということにしました。それに伴い、淡路国に埋葬されていた早良親王の遺骸は、現在の奈良市八島町にある崇道天皇八嶋陵に移されています。

しかし、それでも早良親王の怨霊は静まらず、805年、ついにほ桓武天皇は早良親王に対する「謝罪の詔」を公式に発し、その後も、早良親王を鎮めるための神社が次々と建立されていきます。

806年には、桓武天皇崩御後に即位した平城天皇(安殿親王)が、現在の奈良市に崇道天皇社を創建しました。

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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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