日本氏族の重要な神様を祀る、大神神社摂社・若宮社・大直禰子神社 /神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。

 


大神神社の大鳥居の左手から
山の辺の道への入り口に
大国主命の子孫であることから
若宮さんと親しまれる神社がある
大直禰子命は大田田根子命と同一神で
神門臣の美気姫を妻とし、
子の大御気持命から
三輪氏、神氏、大三輪氏、大神氏、
鴨氏、賀茂朝臣氏、神人部氏、神部氏
などの氏族を輩出したと伝わり
日本の歴史上重要な氏族の
大元になる神様と推測される


鳥居の手前に、古事記の伝説に由来する
「おだまき杉」の古株が残っています
大田田根子命の誕生に繋がる杉とのことです。
苧環(おだまき)とは麻糸を
中空にして巻いたもので、
大田田根子命のご先祖の
大物主命と活玉依姫を結びつけた
赤い糸を巻いたものです。


御饌石(みけいし)
崇神天皇の時代に疫病が流行ります。
崇神天皇は夢に大物主大神が出てきて、
「大田田根子に私を祭らせれば疫病は止む」
と言うご託宣がありました。
大田田根子という人が、
河内の堺市付近で見つかり、
天皇は喜んで、大田田根子を
大神神社の神主にして大物主を祭らせます。
すると、たちまち疫病は止み、
大和国は安泰となったということです。

大物主命もスサノオ命の子孫であるから
大物主命の子孫も厄除けを行うDNAが
備わっていたと考えてもおかしくないですね
















若宮社・大直禰子神社 
わかみやしゃ・
おおたたねこじんじゃ
桜井市三輪

主祭神  大直禰子命


大田田根子(おおたたねこ)は『記紀』等に伝わる古代日本の人物。『古事記』では意富多多泥古命。大神神社では大直禰子命としている。

奈良県桜井市にある三輪山の神である大物主神の子孫または子で、神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)、鴨君(賀茂朝臣氏)の祖神とされる。

「オオ」は「大」、「ネコ」は尊称を意味する。「タタ」は「田」の意味、あるいはタタラの意味等かと推測されている。

『日本書紀』によると大物主神の子、『古事記』によると5世孫、『先代旧事本紀』の「地祇本紀」によると7世孫、で、崇神天皇と同世代の人物。『日本書紀』によると、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)、すなわち和泉国大鳥郡陶器荘(現・堺市東南部の陶器山からその西方にかけて)、『古事記』によると、河内国美努村(みのむら)、すなわち若江郡御野(現・八尾市上之町南)の出身という。いずれも、陶荒田神社(現・堺市中区)の付近という同じ場所を指すかとも考えられる。神門臣の美気姫を妻とし、子の大御気持命から三輪氏(神氏、大三輪氏、大神氏)、鴨氏(賀茂朝臣氏)、神人部氏、神部氏などの氏族を輩出したと伝わる。
現在、大神神社の摂社・大直禰子神社等に祀られている。

明治の神仏分離までは大神神社の神宮寺,大御輪寺(だいごりんじ)で、現在は大神神社の摂社「若宮さん」として知られています。祭神の大直禰子命(おおたたねこのみこと)は大物主大神の子孫で、ほかに 少彦名命と活玉依姫命の二柱を配祀しています。

桜井市聖林寺の、国宝十一面観音は、元々この神社に祀られていましたが明治の神仏分離で桜井市の聖林寺に奉安されています。また本殿は明治以前に神宮寺であった大御輪寺の本堂であったとされ、国の重要文化財に指定されています。 
 
崇神天皇の時代に国中で疫病が大流行した時、天皇の夢にあらわれた大物主大神の神託によって、茅渟県陶邑(現在の堺市)にいた大直禰子命が見出され、大神を祀る神主にされると疫病は治まり国が平和に栄えたとされます。祭神が大物主大神の子孫である事から若宮社とも言われています。 

『日本書紀』巻第五によると、崇神天皇5年、

国内(くにうち)に、疾疫(えのやまひ)多(おほ)くして、民(おほみたから)死亡(まか)れる者(もの)有(あ)りて、且大半(なかばす)ぎなむとす。 (国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった)-訳・宇治谷孟[13]
6年には、「百姓」(おおみたから)は流離してしまい、或いは叛逆するものもあった。その勢いは徳で治めるのが難しかった。朝夕神祇祈り祭った。これよりも前に、天照大神・倭大国魂神を天皇の「大殿」(みあらか)に並んで祭ったが、神の勢いを畏怖し、一緒に生活することができなかった。そこで、天皇が皇女、豊鍬入姫命(とよすきいりびめ の みこと)・渟名城入姫命(ぬなきのいりびめ の みこと)に2つの神をそれぞれ祭らせることにした。天照大神は倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭り、豊鍬入姫には磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立てた。淳名城入姫は倭大国魂神を祭らせたが、髪が抜けて体が痩せて、お祀りすることがっできなかった[14]。

事態を憂慮した天皇は、占いによって、災いの起こる理由を究明しようとした。ここで、占いをすることを「命神亀」と記しているが、亀卜のことを指している。ちなみにこの時代と思われる『魏志倭人伝』の時代には、倭人は鹿の骨を焼く占いをしていた、とある。

そこで、神浅茅原(かんあさじはら)へ行幸し、八十万(やそよろず)の神々を集えて、占いをした。すると、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に神がのりうつり、自分を敬えば自然に疫病は平らぐと言った神がいた。不思議に思った天皇が名前を尋ねると、「私は倭国の域(さかい)の内にいる神で、名前は大物主神という」と自己紹介をした。この神のお告げにしたがってお祀りをしたが、効果はなく、そこで、天皇は斎戒沐浴し、「殿」(みあから)のうちを清めて、「自分の信心が不十分なのでしょうか、夢の中で教えてください」と頼んだ。すると、その日の夢に貴人の姿をした大物主神が現れて、

「天皇(すめらみこと)、復(また)な愁(うれ)へましそ。国(くに)の治(をさま)らざるは、是(これ)吾(わ)が意(こころ)ぞ。若(も)し吾(わ)が児(こ)大田田根子(おほたたねこ)を以て、吾(われ)を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平(たひら)ぎなむ。亦(また)海外(わたのほか)の国(くに)有(あ)りて、自(おの)づからに帰伏(まうしたが)ひなむ」 (天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意(こころ)によるものだ。もしわが子大田田根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう)-訳・宇治谷孟
とおっしゃった。

その後、倭迹速神浅茅原目妙姫(やまとと はやかんあさじはら まくわしひめ=倭迹迹日百襲姫命)や、臣下の穂積臣の祖先である大水口宿禰(おおぬなくち の すくね)らの夢にも貴人が現れて、大田田根子(おおたたねこ)と市磯長尾市(いちし の ながおち)をそれぞれ大物主神と倭大国魂の祭主にすれば、天下太平になるという内容であった。天皇はこの夢の言葉を得て、天下に告げて大田田根子を捜したところ、茅渟県の陶邑で大田田根子が発見された。彼は、父親は大物主大神で、母親は陶津耳(すえつみみ)の娘の活玉依媛(いくたまよりびめ)であると答えた。そこで、卜占で、物部連の祖先である伊香色雄(いかがしこお)を「神班物者」(かみのものあかつひと=神に捧げる物を分かつ人)に任命した。

それから、伊香色雄に沢山の平瓮(ひらか=平らな土器。平たい皿様の器)を神祭の供物とし、大田田根子を大物主大神の祭主、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主にした、という。これにより、疫病は収まり、国内も鎮まり、五穀が実って、百姓は賑わった、という。

崇神天皇8年12月に天皇は、大田田根子に「大神」(おおみわのかみ)を祀らせた、という。この大田田根子が三輪君の始まりだという[18]。

『古事記』にある物語は、これほど煩雜ではないが、大筋は同じで、崇神天皇の時、疫病が流行で人民が多く死に、天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。天皇はその人物を捜し出し、意富多々泥古命に三輪山の神を祭らせ、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に天(あめ)の八十(やそ)びらかを作らせて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め祭らせた、という話は同じである。ただ、こちらは「神の血を引く子」で、大物主大神と、陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘の活玉依毘売(いくたまよりびめ)の3代目の孫である。さらに、活玉依毘売がどうして神の子を産んだのか、という物語も語られている。

大田田根子が登場するのはここまでであるが、このことから、崇神天皇が大和国三輪山の神を祭ることで、祭政一致の政策を行い、さらに、海外も含めた周辺の諸国の統一に着手していることも分かる。


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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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