田園風景に一本の砂利の参道がつづく。
鉄パイプの門柱は参道の長さと
秋の冷ややかな空気も手伝って
やや殺風景に見える
しかし、例祭の折に提灯が
賑やかに連なるのは
圧感だろうと思われる
ハレの日とケの日の
メリハリは想像以上に効果的です。
参道の両脇には石灯籠がならび。
合間に見える黄金色と山の緑に
灯篭の白のコントラストが美しい
厳島様にを合わせ
朱色の鳥居から150段の石段
参道の豊かな氣は身体を廻り
息を切らすことなく登れる
手水舎の横の御神水は
ミネラルが豊富な硬水なのか?
多少の塩味も身体に優しい
穏やかな八幡様のお姿
今日まで無事でお参りできた
感謝を伝えました。
この塩田八幡宮の摂社には
水神さんと岩清水の井戸があり
清らかな水は心を癒してくれます。
かつて塩田川の「月見橋」は
多くの歌人がその情景を詠んだ
業平の兄、在原行平もその一人
阿保親王の御墓参りされた折に
寄られたという。
とはいえ。。
芦屋の親王塚あたりからこの神社まで
ついでにしてはかなりの道のりですね
塩田八幡宮
しおたはちまんぐう
兵庫県神戸市北区道場町塩田
御祭神
応神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
御歳神(みとしのかみ)
当宮 創始不詳ではあるが 大同年間(810頃)には「大歳神社」と称し 御歳神を奉祀すると古記録に見える
その後 山城国石清水八幡宮より 応神天皇・神功皇后・玉依姫命の御神霊を勧請合祀され 石清水八幡宮別宮 塩田八幡神社と称せられた
攝津国塩田庄なるこの地は 74代鳥羽天皇(1103~56)の院政期 后妃の庄園ともなったが 保元3年(1158)には石清水八幡宮并に宿院極楽寺 領庄園となり 神宮寺としての体裁を成した
延元元年(1336)には摂津国守護職赤松範資より社領寄進を得たが 応仁の乱(1467~77)により社殿その他の建造物を焼失
明応8年(1499)に社殿を再興し 享禄元年(1528)には再度石清水八幡宮より御宝体を拝受 奉斎し得た
守護職赤松氏の尊崇は歴代篤く 戦陣に於いては常に当宮を祈願所とし 寺社領のみに留まらず 梵鐘等の寄進も得 更には徳川幕府下 明暦3年(1657)社殿再建時には三田藩主九鬼隆昌より浄財寄進があり 九鬼家当主代々よりの奉納 寄進が続いたものである
維新回転の業は当宮にも変革をもたらし 従前の神仏習合を改める目的の神仏分離令(1868)により神宮寺が廃され 明治5年(1872)には村社に列し 大正4年(1915)10月 神饌幣帛料供進神社の指定を受けた
大正11年(1922)11月郷社に昇格 昭和38年(1963)社名を「塩田八幡宮」と改称して現在に至る
鎌倉時代の私撰和歌集である『夫木和歌抄』に 下記の歌が収められている
「岩高美 塩田廼川尓 船浮而 指上里太留 月乎見留哉」
この歌は 鎌倉幕府第六代将軍である中務卿・宗尊親王の詠んだものである
現在 当宮御旅所の南方に 有馬川の本流である塩田川の水流があり そこに「月見橋」が架かる
往昔 多くの歌人がその情景を詠み 先述の歌もその一つとされる
『攝津誌』によれば その年月を詳らかにする記載は無いものの 宗尊親王が当宮に詣で この歌を詠まれたことが明らかとさる
また平安時代の歌人 太宰権師中納言民部卿・在原行平(在原業平の兄 以下行平卿)もその一人とされる
『摂津名所図會』には
「月見橋ハ塩田村ニアリ 伝へ言フ昔 在原行平卿須磨ノ浦ニ謫遷シ給フ 帰洛ノ後 松風(観阿弥原作・世阿弥改作の謡曲「松風」、歌舞伎の題材)・村雨ノ二女ノ住所 田井畑ヨリ此所(八幡神社)ニ来テ 都恋シク月ヲ眺メシ所ナリトゾ 今モ中秋ノ月ヲ賞スルニ佳所ナリ」
とあり 『摂陽群談』にも同意の記載がある
また行平卿 播磨の国守であった仁和寛平(885年)の頃 武庫郡にある父君阿保親王の御墓に詣で 同時に幾度と当宮に参詣したとされる
塩田川は 元は当宮の山裾を流れており 現在そこには記念碑が建立されている
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Profile 神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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元気に自然に、ノーファンデ宣言。
ほぐし処ケイ・スリー
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