新宮を見下ろす琴引岩、神倉神社/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。




新宮の市内から山を見上げると
赤いお社が見える。
その麓あたりに朱色の橋があり
橋を渡ると正面社殿それは
猿田彦神社&神倉三宝荒神社。
猿田彦命は高天原から地上に降る天孫瓊々杵尊を降臨地・日向高千穂まで導いた国津神。

鼻の長さ七咫、
背の高さ七尺余り。
まさに七尋というべきである。
また口の端は明るく光っている。
眼は八咫鏡のようで、
照り輝いていることは赤酸漿に似ている

鼻の長さから天狗を連想させる神様です。
天狗の住処とされた神倉山に
ふさわしい神様に出迎えられます。

鳥居より石段は538段。
足がすくんで登れない人も多い急勾配が
まずは先を行く人を拒む。
石段は最初から最後まで急ではない。
中の地蔵までの二百段。
そこまで登り切れば、後は緩やかになります。

ただ、上りより下りのほうがもっと怖いので
安全を考えて後ろ向きで
手を石段につきながら降りるといいです。

石段を登り切ると、山上にも鳥居があり、
一枚岩の岩盤のの先に神倉神社の御神体で、
最も大きな巨岩の形がヒキガエルに
似ているところから付けられた
ゴトビキ岩が見えてくる。

新宮市を一望するコトビキの姿は
古来より信仰の対象になっているようです。

幾度と無く登りたくてもご縁が無く
機会を逃していた神倉さん
やっと念願が叶いました。



















神倉神社
かみくらじんじゃ
和歌山県新宮市神倉

熊野速玉大社の摂社
国の史跡「熊野三山」の一部
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部

主祭神
天照大神、高倉下命

神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。

山上には「琴引岩」ゴトビキ岩(ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている。この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。

神倉神社の創建年代は128年頃といわれているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている。


神倉神社の祭神である高倉下命について。
『古事記』や『日本書紀』には、神武天皇が東征の途上、熊野を行軍したことが記されています。

『古事記』より、神武天皇は日向の高千穂の宮から、兄とともに東方に天下を治める都を造ろうと大和に向かいました。瀬戸内海を渡り、難波から淀川を溯上、河内に入り、大和に向かおうとしましたが、大和の豪族のナガスネビコの迎撃にあい、兄が矢傷を負い、撤退。
神武天皇はこの敗戦を、太陽女神アマテラスの子孫であるにもかかわらず太陽に向かって戦ったためと考え、紀伊半島を南に迂回して熊野から北上して大和に侵入することを目指します。兄は熊野に入る前に命を落とします。
神武天皇はそこから迂回し熊野に着くと、大きな熊が草木から出入りし姿を消した。
すると、神武天皇を始め軍隊もみな気を失って倒れた。このときに夢で熊野の高倉下がの刀を持って、神武天皇の倒れている所に来て、その横刀を献上したところ、目覚めて、「長寝したものだ」と言った
その横刀を受け取ると、熊野の山の荒ぶる神は自然とみな切り倒される。すると、気を失って倒れていた軍隊も目覚めた。

そこで、神武天皇はその横刀を得たことを問うと高倉下が「私の夢に、天照大御神と高木神の二柱の神が建御雷神を召して、『葦原の中つ国はたいそう騒がしいようである。我が御子たちは困っているらしい。その葦原の中つ国は、もっぱら汝が平定した国である。そこで、汝、建御雷神が降って再び平定せよ』との命令をしたら、建御雷神は、『私が降らずとも、もっぱらその国を平定した横刀があるにで、この刀を降しましょう』とお答えた、この刀の名を佐士布都神(サジフツノカミ)またの名を甕布都神(ミカフツノカミ)またの名を布都御魂(フツノミタマ)という、石上神宮のご祭神です。
そして、建御雷神は今度は私に向かって、
『この刀を降す方法は、高倉下の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れよう。そこで、朝、目が覚めたら、お前は、この刀を持って、神武天皇に献上しろ』と伝えた。
そこで、夢の教えのままに朝早く自分の倉を見たところ、ほんとうに横刀があった。よって、この横刀を持って献上したのです」と言う。

『日本書紀』には、
天皇はひとり、皇子の手研耳命と軍を率いて進み、熊野荒坂津に着くと。熊野の士族、丹敷戸畔が毒気を吐いて軍の勢いを止めた。すると、そこに熊野の高倉下が現れ。夢に、天照大神が武甕槌神に、「葦原の中つ国はたいそう騒がしい。汝が行って平定せよ」と。すると、武甕槌神は、「私が行かずとも、私がその国を平定した剣を差し向けたら、国は自ずと平定されるでしょう」と答えた。
そこで、武甕槌神は高倉下に向かって、「私の剣の名は『ふつのみたま』という。いま、あなたの倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」と語った。高倉下は「承知しました」と答えると、目が覚めた。そこで、夢の教えのままに翌朝、倉を開いてみると、ほんとうに剣が落ちていて、倉の床板に逆さに刺さっていた。それを取って、神武天皇に献上した。そのとき天皇はよく眠っておられたが、たちまち目覚めて、「自分はどうしてこんなに長寝したのだろう」とおっしゃった。ついで、毒気に当たっていた兵士たちもみな目覚めて起き上がった。
とあり、『古事記』の「大きな熊」に代わって、「丹敷戸畔」が登場します。丹敷戸畔は熊野の土豪の女酋長です(丹敷戸畔の「戸畔」は、女酋長のことを意味します)。登場してすぐに神武に殺されてしまう謎の人物。熊野の熊の氏族の酋長が丹敷戸畔という女性だったということでしょうか?その氏族が侵略者である神武軍を迎撃し、そして、破れたようです。

神武軍は、「大きな熊」「丹敷戸畔」の毒気により進軍不能なまでのダメージを受けましたが、高倉下の献上した霊剣「ふつのみたま」により神武軍は蘇りました。高倉下の協力がなければ、神武東征も熊野の地で潰えていたのかもしれません。
 『古事記』『日本書紀』ともに、この後、八咫烏が登場し、神武軍は熊野・吉野の山中を八咫烏の先導により軍を進めていきます。


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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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