前の記事からの続きです。
前の記事はアメンバー記事ですが
こちらは、公にすべきと思いますので
こちらは、公にすべきと思いますので
公開記事にします。
アメンバー記事は、個人的にまわった場所、個人的な思考を書いています。
なのでアメンバー記事については、
ほんとに興味のある人だけ読んでもらっています。
読みたいという方は、メッセージをくださいませ。
(アメンバー申請されてもメッセージがなにもない場合は承認いたしません。すいません)
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岩手県にいて、
アテルイの里
という小さな看板を見て
アテルイゆかりの地へ行きました。
アテルイ
知らない人もいると思いますので
ちょっと説明をば。
蝦夷(えみし)
のヒーローです。
★火怨・北の英雄アテルイ伝★というのを
以前、BS NHKで放映しました。
以前、BS NHKで放映しました。
ほんとかどうかは知らないが
武内宿禰(たけのうちすくね)
(神功皇后の三韓征伐に同行した戦士。神功皇后を護り、皇子の応神天皇を育てた。300年生きたと言われている)
が、朝廷へこう報告した。(日本書紀)
『東の夷(ひな)の中に
日高見国(ひだかみのくに)あり
土地沃壌えて曠し
(くに、よくこえてひし)
(くに、よくこえてひし)
曠の意味(こう と読む方が多い)
日の光がさしさわるものもなくひろびろと輝く。
明らか。転じて、ひろびろとしている。
撃ちて
取りつべし』
撃ちて
取りつべし!
これが元凶でしょう。
(奥州埋蔵文化財調査センターにあるパネルです)
壌えた土地を征服しようと
朝廷の兵が大軍で東北へ侵攻してきました。
それまで縄文時代と変わらない平和な暮らしをしていた人々は
降伏と服従を迫られます。
これまでの神を捨てることも強いられます。
要するに、弥生族の文化に変わることを強要されるのです。
植民地になった国に、支配した国の文化に服従することを強要しますね?
それと同じです。
朝廷に反抗する者は
まつろわぬ者=蝦夷と呼ばれるようになります。
(関西では鬼とされてます)
平和を愛する彼らは、最初は従っていましたが
西から移住してきた者たちや
政府の役人たちから
ひどい扱いを受けます。
体中に入れ墨が入ってるので一目瞭然なんです。
アテルイだけでなく
何人もの蝦夷のリーダーが立ち上がり
戦ってきました。
なにぶん、敗者側のものは残らないのが常。
勝者が自分たちに都合よく歴史を残し、
それ以前のものも改ざんされます。
だから、蝦夷は野蛮で悪い生き物、
人にあらず
とまで言われているのです。
朝廷に都合悪い者はとことん悪者扱いです。
(怨霊扱いもするね)
アテルイは
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
と戦い、和合したので
歴史に名を残しています。
何度も攻防戦を繰り返した両者が
民のためになる行政を共にしよう
ということで和合しました。
田村麻呂は、都へ
アテルイとモレ(アテルイの戦友)を連れて行き
共同で良い国にする許しを求めましたが
朝廷は即刻、二人を処刑しました。
田村麻呂は二人を救えなかったことを悔いたそうです。
古墳が作られている場所と年代が
西から始まり、東北へ
何世紀にもかけて北上しています。
3世紀後半~4世紀初め頃が
古墳時代前期
4世紀末~古墳時代中期
6世紀初め~7世紀の半ば頃までが
古墳時代後期としている。
古墳時代前期
4世紀末~古墳時代中期
6世紀初め~7世紀の半ば頃までが
古墳時代後期としている。
その後、飛鳥時代、奈良時代に入っても、
まだまだ古墳は造られている。
7世紀前半頃 畿内・西日本
8世紀の初め頃 関東
東北地方は
8世紀の末頃
に、多く古墳が作られている。
7世紀前半頃 畿内・西日本
8世紀の初め頃 関東
東北地方は
8世紀の末頃
に、多く古墳が作られている。
8世紀は、西暦700年代=奈良時代です
奈良時代といえば・・・
日本の歴史・神話が改ざんされた時代です。
真の神と生きる縄文人を原始的な野蛮人とし
神を天皇にすり替えた時代です。
(古事記・日本書紀のことね)
アテルイゆかりの地
胆沢(いさわ)城があった場所へ。
胆沢城とは
陸奥国胆沢郡胆沢(現在の岩手県奥州市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている。
坂上田村麻呂が802年(延暦21年)に築き、1083年(永保3年)の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。
(wikipediaより)
要するに、
朝廷から派遣された役人たちが
暮らしたり、行政したりする城。
兵士もいるし、世話係もいるので大所帯です。
すんごい広大な敷地なので
車で回る(笑)
車で回る(笑)
総面積はおよそ46万m2
と書いてあるが、想像つかない(笑)
東京ドームの何個分って表現があるけど
東京ドームの建築面積は、13,000m2
だってさ。約35個分!!
坂上田村麻呂は、
征夷大将軍になって
ここを拠点にしたそうです。
アテルイとモレが
和平を求めて投降したのも、ここ。
田村麻呂はもちろん
アテルイ、モレも
参拝したかもしれない八幡宮。
胆沢城内にあった
鎮守府八幡宮は
そのまま残っている。
中へ入ると
すぐ左の小道に惹かれました。
なんだろな~?
と思ったら
道祖神的な石碑がたくさん
神様の名前が書いてある。
姿を掘るわけにいかないから
名前だけ書く。
名前だけ書く。
その名前すら、
真の神の名を書くわけにいかないから
地名などにするのです。
どうして書くわけにいかないかって?
朝廷の役人に殺されるからです。
古事記・日本書紀の中の神名じゃないとね。
橋がありました。
流れる水は、
このような場所へ流れ込んでました。
なにも、説明はありません。
真ん中の岩が、ご神体なのでしょうね。
水の中に祀る神さま仏さまはだぁれ?
弁財天とイチキシマヒメですね。
両者は同一。
そして、水神でもあり、
天神さまでもあります。
水が出てきてる場所に
と水神と書いた祠
うんうんその通りだと思うよ~!!
天神さま(女神)は、
本来はカエルなんだよね
(弁財天は白蛇に変身しますが)
(だから、天神さまの護りがあった平将門に、カエルの置物をいっぱい奉納する)
境内へ
八幡宮の『八』が
こちらも鳩マークですな
参拝して
左へ・・・
左へ・・・
山神の社
(山神は、男神ね)
説明なしですが
梵字を掘った石ですんで
神仏習合~嬉しい~
なにげに
ここの宮司さん
わかってらっしゃるのかしら?
天神池といい・・・
大きさ比較のために
セルフタイマーで撮りました↓
さらに奥へ行くと
稲荷御室って書いてあるけど
恵比寿天と大黒天が置いてある。
私は、このお二方は、夫婦神のカムフラージュだと思ってます。
その奥に
雷が落ちたんだろうか?
でも、生きてる木!!
また
大きさ比較(笑)↓
ぷぷぷ!
その奥にも・・・
廃仏毀釈や道路整備のため
移動を余儀なくされた子たち。
では移動~
走っていたら
牛頭天王社
って案内があったので
これは行かねば!
と寄りました。
なんかね~
いいのかな?
人んちよね?
中へ入ると
とても素敵な場所でした
わぁ~気持ちいい~
と、思わず言ってしまった。
ここにあるんです。
川がこのように・・・
さて
えさしの郷土文化館へ行こうと思ってたけど
やっぱりこっちにした!!
通りすがりにあった
中に入ったら
イェ~イ☆(ノ●´∀)八(∀`●)ノ
展示は2階
とのことで
うぉぉ
カッコイイ
カッコイイ
『服しては叛く』というのは
服従しておとなしくなるかと思いきや
服従しておとなしくなるかと思いきや
また反乱を起こす・・・ってことなんでしょうが、
それはさ、
人として扱わないからでしょー?
我慢ならぬ!!と、ブチ切れるわけさ。
これは、江戸時代初期に
奥州藤原氏の人が鹿島神宮へ奉納したものだそうです。
首、取ったどー!