後日です!
トレッキングシューズを履いて、
男坂へ挑戦です!
今までも、道なき道を突き進んできた私です。
(いろんな意味で)
どんと来いです!(笑)
そんなに高い山ではないので、
下から30分くらいで上がれます。
もうすぐ頂上。
階段を上がると、
祈りを
昔はここに、大堂と呼ばれる本宮があったそうです。
高麗山には、椿がたくさん生えています。
出雲の須佐神社などでもよく見たんですが
大きな凛々しい木に寄りそうように椿が生えてます。
これは ↓ 麓の境内にあるラブラブな木
椿といえば、イナダヒメですよ。
イナダヒメを祀る出雲の八重垣神社
しかも、
こんな・・・ ↓ (笑)
椿に絡みついてる木も・・・(笑)
ねじねじになってます ↑ (笑)
どういうことですか(笑)
上 ↑ の写真は
さっきの白い祠の左側にこの古い祠があって
木が生えてるところが少し高くなってますね?
そこには
石が積まれてました。
どういう理由で積まれているのかは不明。
ご神気のビリビリ感を
高麗山では感じることができて嬉しかったのですが
この場所では一層強く感じました。
高麗人たちが住んでいたという説明の看板
アジア大陸と日本の交流は太古の昔から。
認めあおうよね
さて、帰ろうかな
と思ったら
結界を張れ
とのご指示。
御意
高来神社で、気がかりなものがもう一つ。
左右の拝殿の間には
この社があります。
ここから右へ行けば女坂で、白山社へ
ここから左へ行けば男坂で、大堂へ
この社は、札には
平嘉久(ひらかく)社 と書いてあります。
でも、その横にあった石板には
比良加久(ひらかく)社 と書いてありました。
比良を調べてみた。
比良明神=猿田彦
滋賀県の白鬚神社(猿田彦を祀る)は
倭姫により、垂仁天皇が創建。(BC4年)
白鳳2年(674年)、天武天皇の勅旨により
比良明神の号を賜った。
ふぅむ。
高麗を調べてみた。
武蔵国の高麗郡は
現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部に当たります。
埼玉県日高市新堀には高麗神社があり、
祭神は高麗若光。
かつては高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神といわれ、
明治以降は高麗神社と称されるようになった。
ということは、
比良明神=猿田彦=白髭明神=高麗若光?
よくわからない(笑)
猿田彦は境界の神で、
比良はあの世とこの世の境界(黄泉比良坂)を意味する?
ということは、大神神社みたいに
山に入るということは、神の内部に入るということだから
ここから人間界と神の域の境界線ですよ
という意味の、比良ってことなのかしら???
ん~~~・・・加久はなんだろう???
カクゴしろよ~ってこと?(笑)
もともとあった高麗寺は
明治政府の神仏分離令により、廃寺となりました。
が、近年、再建し、今はまた改築中のようです。
慶覚院というそうですが、
山号が
『鶏足山』と書かれてます・・・
鶏足といえば・・・『鳥足の天女』( ̄∀ ̄)
このお寺に本尊として祀られていた
千手観音像の由来がまたすごい。
大磯の浦(照ヶ崎)で漁ををていた蛸井之丞の小舟に
小さな蛸が上って来たかとみると
舳先に千手観音が御立ちになりました。
舟の者共は伏し拝み、高麗山にお遷し致しました。
「新編相模国風土記稿」(江戸時代に作成された書物)には
本地堂では 千手観音を高麗権現の本地仏とされており
七年に一度開扉する。
「応神帝の御宇、海中より出現せしと伝ふ」と書かれいる。
そうです。
応神帝というのは、15代天皇の応神天皇のこと。
(ヤマトタケルの孫にあたる)
神憑り母・神功皇后と共に八幡宮の祭神とされてる。
その時代の頃に、海から千手観音が上がったということです。
秦氏が日本へ渡来したのもこの頃といわれていますが・・・
それにしても
この高麗山・・・
調べてみたら、すごすぎます・・・
詳しく書いてあった記事から抜粋します。
全文はこちら
~以下、抜粋~
666年に高麗若光が日本に渡来した。
その後、若光を含む高麗からの渡来人たちが大磯に入植。
彼らの入植に伴い高麗権現社が創建された。
霊亀2年(716年)、
武蔵国(埼玉)に高麗郡(こまごおり)が設置され、
大磯の高麗人は武蔵国の高麗郡へ移住した。
(どうも無理矢理らしい)
翌717年、
高麗権現社は高麗寺(慶覚院)が管理することになる。
由緒によれば、秦氏と関係の深い
行基の手で
高麗寺が高麗権現社の別当寺になった。
また唐から
左峰に毘沙門塔を
右峰に白山社を建立。
毘沙門天はミトラ神(大元はシュメールのエンリルよん)であり、
日本において秦氏が祀る摩多羅神となり、
白山社は秦氏と深くかかわっている。
別当高麗寺の項には、
役小角が初めて当山に登り
両部垂跡の事を里人に告げたとあります。
相模国の八菅山のみならず
高麗山も役小角がやって来た場所だったのです。
高麗山は、秦氏や高麗系渡来人のみならず、
秦氏と関係の深い行基や円仁、
修験道の創始者である役小角など
超有名人が勢揃いしていた場所である。
なぜか秦氏がいたところには
彼らの足跡が残されているのです。
秦氏は、高麗人が渡来する以前にすでに
このあたりに定住していたはずです。
元々、渡来人である秦氏は、
快く亡命高麗人を受け入れたのでしょう。
~抜粋おわり~
なんか、いろいろと想像・妄想がふくらんできました
これほどの高僧たちがやってきた高麗山。
どこにも書いてないけど、
大磯から少し北上すれば
私が住む秦野。
秦野の秦は、秦氏の秦。
秦野には、空海が修行の場とした弘法山があり
弘法の湧水もある。
だから空海も絶対に高麗山に行ってるはず・・・
この高麗山・・・
何か、ものすごい秘密が隠されているはず・・・
だから、高麗人たちを移住させたんだろうし
(高麗人のものにさせたくない)
明治政府は、やたらとここを潰そうとしたらしいし
神気ビンビンだしね( ̄∀ ̄)
これは、ナニカありそうですよぉ~~~