最近、身体・知的障害者のことを
チャレンジド
と呼ぶそうです。
( 障害の『害』も、ひらがなで書いてたりしますね。
たしかに、彼らが『害』なのではなく、
彼らを忌み嫌う人間の心の方が『害』だと思うわ)
どういう意味で、チャレンジドというんだろう?
と調べてみたら
神様から
チャレンジという使命を与えられた人
試練に挑戦する使命を与えられた人
という意味である。
すべての人間は、
生まれながらに
自分の課題に向き合う力が与えられている。
しかも、その課題が大きければ大きいほど、
向き合う力もたくさん与えられている。
(by Yahoo)
これって、障がい者だけじゃないよね!?
すべての人が、チャレンジドじゃないかー!!!
でも、たしかに『障害者』というネーミングは良くないと思うので
チャレンジドは良い言葉だと思います。
健常者よりも、課せられた試練は大きいもの・・・
私の息子が、自閉傾向の発達障害だと診断された時
理解するために自閉症のご本人が書いた本を読みました。
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その中の文を少しここに書きます・・・
いつも外に出ると、他の人はぼくを、じろりと見ます。そのたびにぼくは、どこかへかくれたくなります。だけど、かくれる所は、どこにもありません。
ぼくにとって家族は、とても安心できる場所です。
ぼくが困ったり、悲しんだり、怒ったりしても、家族はだれも、ぼくを特別な目で見たりしません。
「直ちゃん、どうしたの」と、ぼくを気づかってくれます。
パニックになって、大あばれしても、その時ぼくを怒っても、ごはんの時にはみんなにこにこ笑いながら、もりもりごはんを食べます。
家族の中なら、ぼくにはちゃんと場所があります。こんなぼくでも、かくれなくていい、安心できる場所です。
人の視線を感じて、辛い思いをしてることを知った時、
なんてことだろう!!と思いました。
東田くんが言うには、
自分で奇声を出してしまったりするのは止められないんだそうです。
したくないのに、してしまう・・・この、もどかしさ・・・
それで苦しくて悲しくて
大パニックになってしまったりするんだそうです。
その苦しみを、考えてみてください・・・
その立場になって、痛い視線を想像してみてください・・・
息子が小さい頃、療育病院へ通っていました。
そこでは、様々な障がいを持った子供たちが来ていました。
ある日、息子に「あの子はどうして手がないの?」と聞かれ
フッと出てきた言葉です。(まだ霊感は目覚めてない頃です)
「 生まれてくる時に、神様のところに忘れてきちゃったんだね。
だから、神様が持っててくれてるよ。
困った時は神様が助けてくれるから大丈夫」
自分で話して、あぁホントにそうだな~と思いました。
神様に近い存在
なんだな~って思いました。
魂が成長すれば成長するほど、与えられる試練は厳しくなります。
自分の思い通りにならない身体に入ることは、
とても苦しい試練です。
でも、それを選択して、この世に生まれてくるんです。
その試練に立ち向かうことができる、位の高い魂なのです。
彼らに関わることで、
ごくごく当たり前のことが
どれだけ素晴らしいことなのか、
ものすごく実感します。
彼らから学ぶことは、ものすごく大きいです。
もちろん、彼らは、この世に生まれてしまえば、
魂が持つ過去の記憶は消えてますから
自分がそういう存在だということは知りませんが。
(もしかしたら、言えないだけで
覚えてる人もいるかもしれないけど)
なので、この『チャンレンジド』という言葉は
ものすごくピッタリだと思って感動しました。
でも、忘れちゃいけない
私たち、誰もが、人生にチャンレンジしてるんだってこと!