一枚の写真 50年前の日本人妻 | ゆうきの韓国スケッチブログ

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ソウルに住んで16年目の日韓夫婦。韓国の日常をつれづれなるままに文字や写真やイラストでスケッチしていきます。

先日、朝鮮日報美術館で開かれていた
『激動韓国50年展』に行ってきました。

日本人のカメラマン桑原史成さんが
日韓国交正常化の前年である1964年から50年にわたって記録したもので、
韓国戦後史の非常に貴重な資料が市民の視点から展示されていました。

本当にたくさんの写真があったのですが、
その中に僕の心を強く捉えた一枚があったのでご紹介します。

こちらの写真です。
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1965年に釜山港で撮られたもので
「韓国人と結婚した日本人女性」という説明がついていました。

非常に素朴な服装を身にまとい、二人の子どもを抱える彼女は
おせじにも良い暮らしをしているようには見えません。
当時の大抵の韓国人と全く同じようにコムシンを履いているので、
説明書きがなければおそらく彼女が日本人であることすら気づかないと思います。

おそらくこの写真の印象よりも実際はずっと若い気がします。
たぶん20代なのではないでしょうか。

今でこそ日本人と韓国人の夫婦、とくに「日本人妻」と呼ばれる人たちは
全く珍しい存在ではなくなりました。

しかしこれは50年前、
日韓の間に正常な国交がなかった時代のことで、今とは状況が全く違います。
つまり、彼女は「植民地朝鮮」から終戦後内地に引き上げずに
韓国の地に残ることになった(それが本人の意思によるものか他意によるものかは知る術もありませんが)日本人女性だと考えるのが自然です。
当然、朝鮮戦争も身をもって体験しているでしょう。
また、当時の韓国で「日本人である」ということは、どのようなことを意味するのか、
おそらく現在の僕らが想像できないほどの苦労があったのではないかと思います。

実はこの日、幸運なことにも会場に桑原さんご本人がいらしゃっていて
直接お話を伺うことができました。

どうしてもこの写真の背景を知りたかったので尋ねると

「この人は朝鮮生まれだよ。日本になんか行ったことないんだ。」
とあっさり答えられ、かなり拍子抜けしました。

僕は勝手に彼女の胸の内の望郷の念を想像していたのですが、
考えてみれば1965年当時に20代とすれば、終戦前後の生まれということになり、
韓国の地で生まれ育った日本人ということになります。

日韓併合が1910年ですから、その年に生まれた子どもは終戦のころは
立派な成人であり、当時の半島には「朝鮮しかしらない日本人」が山ほどいたという
当たり前の(しかしなぜか忘れられがちな)事実を、改めて思い知らされる形となりました。

「だから言葉も韓国語が当然うまくてね。日本語のほうがあやしいぐらいだった」
「当時はこんな人たちがたくさんいたんだよ。今はどうなってしまったか知らないけど」


桑原さんの言葉に僕は少し安心しました。
そして勝手に彼女に「韓国で悲劇的な半生を生きた日本人」というレッテルを貼ろうとしていた自分を恥じました。

もちろん、辛いことはたくさんあったはずです。
でも、僕たち「日韓夫婦」そして「在韓日本人」の大先輩である彼女が、
思ったよりもたくましくこの地で生きていたことを知ったような気がして
なんだかとても元気づけられました。

「これも同じ人だよ。家の前じゃなんだから気晴らしに海で撮りましょうって言われて、港で撮ったんだ」
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桑原さんが指差す写真の彼女の顔は、心なしかちょっと微笑んでいるようでした。


そして50年、
韓国には多くの日本人の若者が訪れ、暮らすようになりました。
彼らの多くは新しい韓国の魅力に惹かれてこの国を訪れる反面、
この国が「ついこないだまで貧しかった事実」をほとんど知りません。
いろいろな問題はありますが、韓国という国の敷居は日本人にとって
かつてないほど低くなっています。

今回、韓国に留学に来ている日本の若者たちと一緒に展示を見に来たのですが、
自分が生まれる遥か前の韓国の姿を熱心に見つめる若者たちの
後ろ姿をじっと見つける桑原さんの後ろ姿がとても印象的でした。
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