★今夜 10時 日テレ系TV
“明日、ママがいない”
第2回が放映されます
大好きな芦田 愛菜ちゃん主演の
児童養護施設を舞台にしたドラマです
“Mother” 以来
最近では少女の顔が見え隠れ・・・
名子役のプレッシャーに押しつぶされないで
すてきな女優さんになってね・・・
ちゅうばあちゃんはいつも応援していました
題名から
Mother 同様 重いテーマなんだろうな・・・
第一話
愛菜ちゃんの迫真の演技に圧倒され
愛菜ちゃんの成長を確信しました
さすが愛菜ちゃん
あまりテレビを見ないちゅうさんですが
楽しみがふえました
ですが・・・
ドラマ内容に対し
差別的だと指摘する 慈恵病院(熊本市)
全国児童養護施設協議会
里親会 から放送中止の抗議があがっています
これについてのコメントが
ありましたので
長文ですがご参考にご覧ください
このコメントの最後に
このままでは
大人顔負けの演技をした芦田愛菜を始めとする
子役たちがあまりに可哀想だ。
とあります
私が一番伝えたかったことです
世間は
大人顔負けの演技派の子役に対して
絶賛・もてはやします
一方では
特異な環境で
いびつな成長をとげざるを得ない子役を
批判的な目で見る大人がいます
過去に
どれだけの子役が成長と共に消えていったか?
潰されていったか?
りっぱに役者で大成した 水谷 豊さん
?????の 坂上 忍さん
ドラマの内容はどうあれ
矢面に立たされる
子役たちをいじめないでください
ちゅうばあちゃんからのお願いです
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
日本テレビが1月15日(水)に初回を放送した、芦田愛菜主演のドラマ「明日、ママがいない」に対して、児童福祉の関係者から抗議の声が上がっている。
本物の「赤ちゃんポスト」を運営している熊本市の慈恵病院が日本テレビに「放送中止」を求めている。
まず、経緯を伝えている共同通信の配信記事を見てみよう。
人権侵害”日テレにドラマ「明日、ママがいない」の中止要請(共同通信・サンケイスポーツ)
いわゆる「赤ちゃんポスト」を設置している慈恵病院は、「養護施設の子どもや職員への誤解偏見を与え、人権侵害だ」と主張している。何が問題なのか、記事での病院側の主張をチェクしてみよう。
日刊スポーツの記事もほぼ同じ内容だが、少し詳しい。
芦田愛菜が演じる女の子の名前(あだ名)が「ポスト」となっていて、「預けられている子どもへの預けられた子どもを傷つけ、精神的な虐待、人権侵害になる」という点と舞台となるグループホーム(児童養護施設)で職員が、子どもが泣き出すまで朝食を与えない、とか、バケツの水を持たせたりする、という「体罰」を与えるシーンが出てくるのは、児童養護施設の職員への誤解や偏見を与える、という。
「明日、ママがいない」に放送中止を要請(日刊スポーツ)
さらに日刊ゲンダイの記事は、病院側の声を載せている。
猛抗議で中止必至 日テレ「明日、ママがいない」のエグさ(日刊ゲンダイ)
サイゾーウーマンは、脚本の野島伸司がこうした抗議を織り込み済みで、センセーショナルさを狙ったのでは?という憶測記事を書いている。
”あざとい”野島伸司監修ドラマ、『明日、ママがいない』の騒動は「想定内とも言える」(サイゾーウーマン)
さて、ここからは、こうした児童福祉もテーマにして専門記者をやってきた立場で私見を述べる。
一般論として、これはドラマだ。
一般論だが、ドラマでは、娯楽性の追求のために、多少の誇張や「ありえない話」は許される。
高校の教師がヤクザの組長の孫娘だったり、クラスは暴力が支配し、先生の言うことを聞かないで暴れる生徒ばかり、ということも許される。
ヤクザの跡取り息子がそれを隠して、高校の生徒だったりすることもドラマでは許される。
ただし、そうした誇張には条件がある。
「そのドラマの表現で誰かを傷つけないこと」「差別や偏見を助長しない」ということだ。
私はテレビ局の報道記者として主に貧困問題を長く取材してきた。
解雇や病気、非正規の不安定な働き方、親の介護、親の虐待など、いろいろな環境でネットカフェ難民やホームレスに陥った人たちを数多く取材してきた。
そうすると、自分がかかわる報道では、そうした問題の背景にある、非正規労働の問題や貧困ビジネスの問題などをいくら訴えても、自分がかかわらない番組では、当事者への「差別や偏見を助長」したり、当事者を「傷つけたり」する放送も存在するという実態に何度も直面した。
ドキュメンタリーやニュースなどで私が記者として問題を取り上げ、それが「社会的な背景」によって生まれてきている、ということを取材の末に究明して報道しても、
別の番組では「酒好きで自堕落で怠け者のホームレス」などと、一面的なステレオタイプの偏見や誤解そのままに「好きでホームレスやネットカフェ難民をやっている」というふうに描かれていることも少なくなかった。
「偏見」放送を行った番組まで出向いて、貧困問題の専門記者として「偏見を助長する放送は問題がある」と自分なりの見解を伝えに行ったこともある。が、しょせん、同じテレビ会社といえども違うセクションの、違う番組になると担当者も「一応、ご意見はうかがいました」という程度の反応しか見せない。
生活保護を受けている人たちへの見方も、いろいろな事情で生活困窮し、他に生きる手段がなくて、行政に支援を求める立場になった人たちに、どうしてすぐに働けないのか、とか、恥ずかしいと思わないのか、もっと感謝の気持ちを持ってすまないという姿勢を示すべきだと、という見方が時に噴き出す。一昨年の河本準一さんの問題をきっかけにした「生活保護バッシング」はその最たる例で、生活保護を受ける人たち、あるいは、これからこの制度に頼ろうとする人たちに、「ちょっとぐらい困っている程度では使わないでほしい」「本当は、後で返すべきでは?」「生活保護は恥ずかしいというのが原点」などという『上から目線』の主張ばかりが、テレビで流され続けた。
これに対して、実際に生活保護を受ける立場の人たちの声はほとんど放送されなかった。
ごくわずかに登場した生活保護受給者は、昼間から酒を飲んでいる大阪・西成の元ホームレスのおじさんたちだ。
彼らの「自堕落なイメージ」で、母子家庭や高齢者や障害者も含む「生活保護受給者」のイメージが形成されていった。
明らかに「生活保護受給者層とその予備軍」の全体への差別・偏見を伴う報道だった。
こうした「バッシング報道」で、私はかつて取材した生活保護受給者から「世間の目が恐くて、外出も出来ずに布団かぶって寝ていた」とか「うちの子どもは生活保護を受けていることを恥ずかしくないと学校でも堂々と公表していたが、『お前も河本と同じでズルしているのか』といじめれた」などの声を聞いた。
テレビの放送が、子どもたちの心を傷つけることがある。
それは取り返しがつかない。
これらの報道は、実はテレビ局内の報道局ではなく、多くの場合、情報局や制作局など、情報番組を担当するセクションで行われた。
人権の侵害がないよう日頃から敏感な報道セクションと比べ、それ以外の局ではそうした意識が乏しく、当事者への偏見や誤解を増幅するような報道をしてしまうこともあるのが実態だ。
そういう経験から考えるに、テレビドラマもバラエティも情報番組も強者の理屈、「上からの目線」で制作されることが起きてしまう。
あるいは、報道局の報道番組でさえも、そうした、いわゆる「弱者」の問題に詳しい人間がいないと、自覚のないままに「生活保護は恥ずかしいから早く切るべきだ」などという偏見を含んだ言葉をそのまま電波に載せてしまう。
給食費の滞納が増えているとされる問題も「払えるのに払わない親が問題」などと、払えるかどうかを番組で取材もしていないのに、行政の言い分だけを信用してもスタジオで議論してしまう。
貧困ゆえに、親が給食費を払えないことで負い目に感じて不登校になってしまった子どもたちもいるのに。
そんな経験から、一般的に、テレビ局においてはドラマやバラエティなどの番組で、専門的なテーマの記者の与り知らぬところで、比較的いい加減なリサーチのまま、自覚のないままに偏見・誤解を助長するような番組制作が行われるケースはしばしば発生してしまう。
さて、ドラマに話を転じてみよう。
ドラマでも、報道的なテーマを対象にする場合は、現場で何が起きているかをちゃんと「取材」することが不可欠だ。
最近のドラマでは、日本テレビの「ダンダリン~労働基準監督官~」では、長時間労働をやさせて賃金を払わないブラック企業問題などを毎回取り上げていたが、現場の実態を良く取材してた上での脚本だった。当然ながら「偏見・誤解」を与えず、誰も傷つけない番組だった。
また、母子家庭や生活保護、非正規労働などの背景が時々登場するテレビ朝日の「相棒」もそうした現場をよく取材していて、弱い立場の人間を心情を描いている。
昨年、NHKで放送された「シングルマザーズ」は、母子家庭の母親たちの貧困や労働と子育ての両立の困難さや孤立を丁寧に描いていた。
このドラマは、実際に母子家庭に向けた支援団体の関係者が監修に入って制作されていた。
では、今回の「明日、ママがいない」では、舞台になる児童養護施設や児童相談所、養子あっせんをしている団体などの監修を受けていたのだろうか。
この点について私はまっさきに疑問に感じてしまう。
私がもっとも大切だと思うのは、このドラマを現在、児童養護施設にいる子どもたちがどんな思いで見るだろうか、という「想像力」だ。
こうした「想像力」を、脚本家やプロデューサー、ディレクター、局のコンプライアンス担当などの関係者は果たして持っていたのだろうか?
児童養護施設に入所している子どもも一般家庭の子ども同様にテレビは見る。
児童養護施設に入所している子どもも学校に通っている。
ドラマでは、児童養護施設の一つであるグループホームに入ったこどもたちが、施設長からペットショップの犬のように扱われ、「もらい手」を見つけるために、泣く方をうまくなれ、と指示され、うまく泣けないと朝ご飯を食べさせてもらえないシーンが出てくる。
あるいは、養子や里親を探す夫婦のところに「お試し期間」として引き取られて様子を見るシーンも登場する。
実際に同じような施設で暮らす子どもたちが放映の翌日、学校に行った時に「お前のところも食事の前に、泣けよ、とか言われるわけ?」などとからかわれる可能性がある。
日頃、施設から通学していることをあまり口にしたくない多感な子どもたちにとって酷なことではないか。
あるいは「お前のところも、ペットショップみたいに、新しい親を探して、お試し期間とかやったりするのか?」とも言われるかもしれない。
それがどれほど残酷なことか。
施設にいる子どもたちにとって、あの放送は「加害性」があるものだったといえる。
番組の制作者はどう感じているのだろう。
日本テレビとしては、番組の最後に「この物語はフィクションです。登場する人物・団体などはすべて架空で実在の人物・団体などとは関係ありません」というテロップも入れている。
だから、これはあくまで作り物で実際の話ではないと注意しているので、十分に配慮した、などという言うだろう。
確かに「法律的には」その通りで相手側から裁判を起されたりしても負けないのかもしれない。
あるいは、芦田愛菜演じる、「赤ちゃんポスト」に捨てられた「ポスト」という主人公のあだ名も「『赤ちゃんポスト』というのは一般名称であり、特定の組織を意味するものではありません。あなた方のことを特定しているわけでないので差別だと言われてもそうではありません」とも抗弁できるだろう。確かに、今回、抗議の意思を示した慈恵病院では「こうのとりのゆりかご」という名称が自分のところの「赤ちゃんポスト」の正式名称だ。
ただ、この慈恵病院の「赤ちゃんポスト」以外に、日本国内に「赤ちゃんポスト」は存在しない。
「こうのとりのゆりかご」を舞台にしたドラマでは、昨年11月放送のTBSの単発ドラマ「こうのとりのゆりかご~『赤ちゃんポスト』の6年間と救われた92の命の未来」 がこの活動を肯定的に扱い、芸術祭優秀賞を受賞している。このドラマでは「生まれてきてくれて本当にありがとう」だった。少なくとも「こうのとりのゆりかご」関係者は、そうした思いで子どもたちのために奔走しているのだと思われる。
「ポスト」という名の「赤ちゃんポスト」を経た女の子が、虐待や暴力的な児童養護施設に入っている、というドラマ「明日、ママがいない」の設定は、「赤ちゃんポスト」への誤解を招く、と指摘されればその通りだろう。
放送する前のチェックには、その問題に詳しい専門記者なり外部の識者なりのチェックを受けることは大事だ。
残念ながら局内のコンプライアンス担当の責任者が目を通すだけではダメなのだ。
放送局のコンプライアンス担当の管理職は一般論として、報道の警察や司法経験者が就くことがどの会社でも多い。
しかし、それは相手に訴えられるかどうか、という法的な問題には長じていても、相手の心を傷つけるかどうか、というギリギリの取材をしたことがある人間はほとんどいない。
法的に問題があるかも会社として大事だが、それ以上に、関係者の「気持ちに配慮しているか」が問われている。
一番守らねばならない「施設の子どもたち」への「想像力」を失い、彼らを傷つけているのだとしたら、それはどんなに良い放送をしても意味がない。
テレビ局は、放送という公共的な事業を認可された公共的な存在だからだ。
偏見や誤解を与える、という問題を抜きにして、ドラマとして見れば、おどろおどろしい演出ではあったが、それもいきなり母親に捨てられて施設に連れて来られた子どもの目線だと考えれば、リアリティがある部分もあった。また、今回の抗議の中に、「施設で働く職員への差別・誤解」というものもあったが、実際にはいろいろな児童施設で虐待事件は起きているので、そのことがドラマの背景として取り上げることそのものは職員への差別という問題は当たらないと考える。ただし、前述したように、「赤ちゃんポスト」関係の施設でそういう実態があるかのような誤解を受ける可能性はある。
また、子どもたちへの「差別」を考えた時には、やはり放送では配慮すべきだったと思う。
実際に、このドラマを見て児童養護施設の子どもが学校でいじめられた時、日本テレビはどう謝罪するつもりだろうか。
慈恵病院側は、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会への申し入れも検討している、という。
私自身も、同委員会に申し入れをやったことがある。
放送局の側からすれば、何でもかんでもBPOに持ち込まれて、口出しされるのはかなわない、という実感がある。
BPO側も、司法権があるわけじゃないし、我々に何でも持ち込まれても困る、と感じていることを承知している。
それも分かるが、現時点においては、何か当事者が傷つきそうな時に、放送局が「聞く耳」を持ってくれるのは、BPOという第三者機関が動いた時だけ、というのも客観的な事実なのだ。
だから日本テレビ「ぜひ、最後までご覧いただきたい」などと突き放さず、慈恵病院側と誠実に話し合いをしてほしい。
向こうは、子捨てや里親、特別養子縁組などについて日頃、子どもの幸福という立場で問題と向き合い続けている専門家たちだ。
そうした人たちの声を聞かずとも、「最後までご覧いただきたい」と言えるのであれば、私は傲慢な姿勢だと思う。
毎日毎日その問題に向き合ってきた人たちと、たまたまちょっとこの問題を調べただけのマスコミには、子どもの人権への危機感も雲泥の差があるのが普通だ。
今回、病院側が残念に思っているのは、「血の通った言葉」だろう。
いったい、親に捨てられた子どもたちの問題について、制作した側がどう感じているのか。
どういう「覚悟」で制作しようとしているのか。
少なくとも、そうした声に耳を傾け、より良い放送。
つまり、
誰ひとり傷つかずに済む放送を目指すべきだ。
また、同じようなことが再び起きないように、専門の記者や現場を良く知っている複数以上の人たちに取材をした上で脚本を吟味するような体制を作ってもらいたい。
「ママが自分を捨てた日じゃない。あんたがママを捨てた日だ」など、後で反すうしてみたくなる台詞もあった。
とりわけ芦田愛菜の表情で見せる演技は最高のシーンだった。
親に捨てられた子どもの思いが込められていた。
「ちっくしょー絶対、幸せになってやるって…」
「私たち、誰も知らなかった。昨日も今日もいたままが明日にはいなくなるなんて…。突然いなくなるなんて…」
演技は真に迫り、それだけこのドラマには多くの人を惹きつける魅力がある。
だからこそ、
このままでは大人顔負けの演技をした芦田愛菜を始めとする子役たちがあまりに可哀想だ。
子どものためのドラマなのだというなら、子どもが一人も傷つかないような形で放送してほしい。