昨日の記事
では、子供に勉強をしてほしいと考える本質的な理由が、子供に幸せになってほしいからではないかということを考えました。
ここで「しあわせ」というものを簡単に定義しておきましょう。
私がまだ、20代の時、「なだ いなだ」という作家にはまったことがあります。
そのなださんの著書に「あなたへの手紙」というものがあります。
その副題は「娘の幸福のためのカルテ」となっているように幸福について書かれた本です。
なださんは、もともと精神科医ですが、その鋭い視点に私は大きな影響を受けました。
その本の中で、幸福についてこんな記述があります。
昔から数えきれないほどの哲学者が、幸福とはなにかについて考えてきたんだが、・・・・ショーペンハウエルという哲学者も、結局のところ、幸福というのは不幸でないだけのことという、アリストテレスの定義以上のものを、人間は見いだせなかった、と言っている。こういう定義を同義語反復的(トートロジー的)定義というんだね。幸福とは?不幸でないこと。では、不幸とは?幸福ではいこと。
幸福の問題は、多くの哲学者たちを悩ませてきた?
幸福というものは不幸でないこと?
結局、幸福とは何じゃらほい?
なださんはこんなことを書いていましたよ。
結局は、幸福というものが、他人に与えられるものであり、また他人から与えられるものでもある、という考えに問題があるんじゃないかな。幸福というものはなく、何を幸福と見るか、その見方だけがあるんで、つまりは人間の内面の問題さ。
何が得られれば、幸福になるというような状態はないということですね。
それは、内面の問題で、与えられた状況をどのように見るかということ。
そのため昨日の記事の木下さん風にいうと、多くの人は、お金があれば、幸福になると、「何の根拠もない考えに基づいて」その努力を払っているのかもしれません。
もし、仕事の上で大成功して、有り余るほどのお金があっても誰からも感謝もされない、信頼もされないならきっと幸せだと感じることはないでしょう。
マザー・テレサはこんなことを言っているそうです。
「最もひどい貧困とは、孤独と愛されていないと感じることです。」
逆にお金がなくても周りに感謝や信頼があふれている人であれば、「自分は幸せだ」と感じることも多いんじゃないかと思います。
確かにある程度のお金は大事だと思います。
ないとそれは多くのストレスを生じさせるからです。
でもそれだけがすべてでないし、それだけでは人を幸福だと感じさせない。
「しあわせ」であるためには、ある程度のお金に加えて良い人間関係の両方が必要なんだと思います。
その意味で、まず、子供にはどうしたら感謝されたり、信頼されるか、そしてまた会いたいと思ってもらえる人になれるか、人間関係の基本を伝えることが大切なのかもしれません。
お金に関することは、そのあとでいいのではないかと思います。
それに加えて人生には、幸福の反対、不幸だと感じられることもあるはず。
そんな時にどう対処するかも大切になってきます。
なださんは、親として子供に願うことについてこう語っていました。
ぼくが子供に願うことは「不幸のどん底に落とされても、決して希望を失わないでほしい」ということだった。
本当にそうだと思います。
人生が楽しいこと、うれしいことばかりであれば、いいのですが、いつもそうとは限りません。
そんな時に希望を失わないでいて欲しいものです。
その点で、なださんは、ゲーテの「西東詩篇」という詩集の言葉をひいていました。
地上の子らのしあわせは
どんな生き方をしようとも
自分が自分であるところのものを
失わないでいることだ
自分が自分であることを失わないことが「しあわせ」?
結局、生きているといろいろな苦しみが生じるに違いありません。
そしてそんな苦しみが生じたとき、いわゆる自分を失う(死?)ならば、その苦しみからは確かに解放されるでしょう。
でも、それでは・・・
絶対に自分を失わないで欲しいものです。
苦しいことから学ぶことも多いですからね。
さて、「しあわせ」に関していろいろ述べてきましたが、そろそろ結論を述べたいと思います。
「しあわせ」は内面の問題なので、ある状況になれば、しあわせになるというものではない。
それと人によって感じ方も違うので、簡単に定義をするなんてことはできないのだろうと思います。
でも、話をするうえで、定義があったほうが便利なので、あえて、ある程度のお金、そして人間関係に感謝や信頼があふれている状態を仮に「しあわせ」と定義しておきたいと思います。
その定義の元に「子育ての黄金律」の話しを進めていきます。
最後に幸せとも関係がありそうな この記事
をご紹介してこの文章を締めたいと思います。
自分を磨く必要性を感じさせてくれます。