私が今住んでいるところは、比較的狭い道を通らないといけません。
タイトルの「アドラー心理学とABC理論」と狭い道がどういう関係があるの?と思われたかもしれません。
これからその関係を説明しますが、子供に対してイライラを感じたりした時に役に立つと思いますのでよかったらおつきあいください。
さて、続きですが、狭い道を通るので車でその道を通る際に対向車が来るとお互いに譲り
合わないと通行できません。
そのため、向こうから車が来ると少し広い場所に車を止めて対向車が通過するのをやり過ごし取り、逆に対向車が止まってくれたり!
相手が止まってくれた場合、私は必ず、手をあげたり、クラクションを鳴らしたり、会釈をしたりして感謝の意を表すようにしています。
もちろん、多くの運転者さんはあいさつを返してくれます。
しかし、こちらが車を寄せているにもかかわらず、過ぎ去る際に知らん顔で過ぎゆく人も中にはいて、そんな時、イライラというか、怒りを感じたりします。
でも、妻はそのようなことで怒りを感じることもないようです。
何が違うのでしょう?
心理療法の中に、論理療法というものがあります。
創始者は、アルバート・エリス。
彼はもともと精神分析家でクライアントの精神分析をしていたのですが、精神分析の問題点に気付きます。
①時間がかかる
②洞察しただけでは治らないことが多い
そのため論理療法というものを考案していきます。
実はアルバート、エリスはアドラーの影響を受けているようなんです。
それで記事のタイトルは上記のようにしました。
それはいいとして論理療法がどんなものかというと・・・
上の例で説明してみます。
A(Activating event 出来事)
車を寄せて待っていても対向車の運転者は何もしないで通過する
B (Belief system 考え方・受け取り方)
待っててもらったら挨拶や感謝をするのが当然
C (Consequence 結果としての感情・悩み)
挨拶もしないなんて非常識的だ(軽い怒り)
論理療法では、何か出来事が起ったときに(A)、出来事そのものが悩みや怒りを生みだすのではなく、それをどう受け取るか(B)が(C)の感情や悩みを生じさせると考えます。
だから、Bの考え方・受け取り方が違えば、結果として怒りを感じる、感じないという違いも生じさせるわけです。
妻があまり怒りを感じないというのは、Bの受け取り方が違うからなのですね。
では、私の「待っててもらったら挨拶や感謝をするのが当然」という考えは、適切なものでしょうか?
それを論理的に捉えなおそうというのが論理療法です。
このような場合、論理療法では、「待っててもらったら挨拶や感謝をするのが当然」という考えの反論を考えます。
「待っててもらったら挨拶や感謝をするのが当然」という考えは、論理的だと言えるだろうか?
そう考えるといろいろな考えの可能性が広がりますね。
待っててもらったら挨拶をするのは望ましいけれど、もしかすると挨拶できない状況にあったのかもしれないな!
本当はそうした方がいいけれど、家庭環境で挨拶の大切さを教えてもらえなかったという可能性のあるかもしれないな!
などなど。
そのように考えると子供が部屋を散らかしたままにして、イライラしたとします。
あるお母さんは、
A 子供が部屋を散らかした
B ちらかしたらかたずけるべきである
C イライラ
それに対して他のお母さんは、
A 子供が部屋を散らかした
B できれば片付けて欲しいけどその気になれないのね。
C まあ、しょうがないか
受け止め方の違いによって、このような違いを生みだす可能性があります。
それで、怒りやイライラを感じたら、Bの部分、「自分の考え方・受け止め方は論理的だろうか?」と自問して反論を加えてみるときっと感じ方が変わることでしょう。