米沢城 

   

 米沢城は、鎌倉期に大江広元の息子が城を築き、その後は伊達氏、蒲生氏、上杉氏が城主となりました。

 

 伊達政宗は米沢城が生誕地で、石碑が建てられていました。ただ、米沢城はもっぱら上杉謙信、景勝、直江兼続押しで、政宗の生誕地碑には銘板も無く、自分で調べてみて、へぇ~政宗は米沢生まれなのだと知った次第です。確かに、政宗が仙台に行くのは、秀吉の命でした。山形出身の方と話していて、政宗米沢城生誕の件を話すと、そうだそうだとのこと。米沢では、政宗は冷遇されているような・・・。もっと、生誕地をアピールしてもよいのにと思った次第です。

 

  

 城跡にある上杉景勝と直江兼続の像です。家老の兼続と城主が並んで像が建っているのは、大河ドラマ「天地人」の影響でしょう。兼続は、関ヶ原の戦い前に、家康に物申した「直江状」が有名ですが、2023年の大河ドラマ「どうする家康」で、直江状を突き付けられた家康が、どうするかが見ものです。

 

  

 上杉謙信は越後出身で、跡を継いだ上杉景勝が米沢にやってくるのは、江戸期に入ってからになります。大坂の陣では上杉景勝、直江兼続がともに兵を率いて大坂にやってきて、鴫野の戦いで奮戦しました。「どうする家康」がそこまで描いてくれるかですが、筆者はぜひ、大坂の陣のドラマ化を期待しています。「天地人」では、ラストの回が鴫野の戦いでした。

 

  

 こちらは旧米沢城の中にある上杉神社です。

 

  

 関ヶ原合戦後、上杉氏の越後から米沢への移転に伴い、越後に埋葬されていた上杉謙信の遺骸を再葬したとのことです。

 戊辰戦争では、米沢藩にも大きな被害がありました。城内に戦死者たちの招魂碑が建てられています。会津領内を出た土方歳三が、援兵を求めて米沢に入ろうとしたものの、領内には入れず、仙台へ向かったという経過もありました。 

 

  

 上杉家は領土は小さくなりましたが、何とか存続したおかげで、お宝が残りました。郷土資料館には、その最大のお宝、戦国期の「洛中洛外図」が展示されていました(模写)。戦国期の洛中洛外図はわずかに4作が残るのみで、大変貴重です。本作は織田信長が上杉謙信に上洛を促すために贈ったと伝わります。

 

   山形県鶴岡市 鶴ケ岡城下

 

  

 

   

 庄内藩です。鶴ケ岡城は鎌倉期に築かれ、城主は武藤氏、最上氏、上杉氏と続き、江戸初期に酒井忠次(2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、大森南朋さんが熱演されています)の孫、酒井忠勝が入り、明治維新まで酒井氏の居城でした。現在、城跡は鶴岡公園になっています。

 

 幕末期、江戸で結成されて、京にやってきた浪士組ですが、分裂後、京に残ったのが新選組になり、江戸へ戻った人々が新徴組となりました。京で新選組を預かったのが会津松平家で、江戸で新徴組を預かり、治安維持を図ったのが庄内酒井家でした。慶応3年末、テロを繰り返し、薩摩藩邸に逃げ込んだ浪士を追って、藩邸に砲撃を仕掛けたのは庄内藩士たちでした。この事件が鳥羽伏見の戦いの引き金となりました。

 

 庄内藩は奥越列藩同盟に参加し、新政府軍と戦いますが、内部が結束していたのと、豊富な資金で手に入れた性能の良い武器のおかげで善戦を繰り返しました。とりわけ、庄内藩家老で、二番大隊・大隊長の酒井玄蕃了恒(げんば・のりつね)は、連戦連勝で新政府軍に鬼玄蕃と恐れられていました。当時、26歳。なかなかの美男子だったそうですよ。

 

 維新後、酒井玄蕃は新政府に出仕するものの、残念ながら、明治9年、33歳で亡くなりました。結核を長年、患っていたそうです。鶴岡の図書館を訪ねてみると、酒井玄蕃関連の書籍が多数あり、郷土資料館でもかなりフィーチャーされていました。

 

  

 

  

 城跡近くの大寶館という洋風建築に郷土資料館が入っていて、庄内藩の戊辰戦争での戦いの状況が展示されていました。

 

  

 

  

 旧鶴ケ岡城の三の丸跡に、致道博物館があります。ここに、旧城下町の歴史的建造物が集められていました。この博物館は酒井忠次が織田信長を接待した際にもらったと伝わる刀剣「太刀 銘真光」(国宝)と、忠次の武功を称えて、家康からもらった「太刀 銘信房」(国宝)を所持していて、2023年春以降、大河ドラマ「どうする家康」が放映されていることもあり、展示されるようです。

 

  

 写真は致道博物館内に設置された酒井家の江戸屋敷の赤門です。

 

 作家藤沢周平は鶴岡市出身で、藤沢氏の描いた海坂藩は庄内藩がモデルです。城下には藤沢周平記念館があります。「蝉しぐれ」や「たそがれ清兵衛」、「武士の一分」などなど、味わい深い作品です。記念館では、じっくり藤沢ワールドに浸ることができます。

 

 山形名物、芋煮です。店によって、内容はいろいろですが、素朴な味でした。

       吉野山の桜 

 

  

 

  

 

  

 2023年は3月が暖かかったために、吉野山(奈良県吉野郡)の桜が全山一斉に咲いたとかで、素晴らしい眺めでした。吉野山はどこか一か所の桜の名所があるというのではなく、微妙に桜の種類が違うようで、山全体がピンク色のグラデーションになり、見事でした。

 

  

 例年、吉野山は下部から下千本、中千本、上千本、奥千本と順に咲いていくそうですが、新聞情報によると、2023年4月上旬、奥千本はまだでしたが、下・中・上と一斉に咲いていたとのことです。筆者は初めて吉野山を訪れたので、毎年こういうものかと思っていましたが、どうも、今年は特別だったようです。

 

 吉野山は古来、都の権力者が逃亡する場所でした。臨終の天智天皇に位を譲ると言われたものの、遠慮した大海人皇子、後の天武天皇が入ったのは吉野山でした。天武天皇の崩御後、皇子は吉野から出陣し、壬申の乱となりました。

 

  

 

  

 兄源頼朝に追討されることになった、源義経と弁慶、静御前も京から吉野へ逃亡してきました。吉水神社には、義経が滞在したという部屋が公開されていました。

 吉水神社の書院は、創建は白鷗期で、室町期に改装され、世界遺産に登録されています。義経と弁慶が立ち去る際に、鎧や武具を残していったとのことで、展示されていました。向かって左は義経の鎧(重要文化財)、右は弁慶の槍です。

 

   

 

 鎌倉末期、後醍醐天皇は幕府追討の兵をあげ、建武の親政を始めたものの、足利尊氏に京を追われ、1336年には吉野で南朝を開始しました。吉水神社は最初の南朝の皇居となりました。神社には、後醍醐天皇の遺品も多数展示されていました。

 

  

 戦国末期には、豊臣秀吉が吉野に花見に来ています。この屏風は狩野派の画家が描いたもので、秀吉の花見の際のものだとか。

 

  

 吉野山の中心、金峯山寺です。