龍馬と大久保のシェイクハンド

 「非義の勅命は勅命に有らず」、たいそう大胆な大久保の書状です。が、史実でして、現在、大阪歴史博物館で実物を展示中。筆者も見てきました。ようは、皆が納得しない(大義のない)天皇の命令には従わなくてもよいということです。この時代、こんなことを言ったのは大久保さんだけです、ほんと。ただ、近代の匂いがします。最も、これから天皇の権威をさんざん利用、もとい、活用する大久保さんです。曲者です。

 「幕府に逆らってもいい」という久光のお墨付きをもとに、長州との密約を図ろうという薩摩藩の京都出張所、小松組の面々です。薩摩藩の中にも反長州派は多く、長州藩の中にも反薩摩藩の勢力は大多数でした。そこを何とか手打ちにもっていったのは、徳川家という巨大勢力に立ち向かうためには、必要なことだったのでしょう。久光は長州が倒れたら、次の幕府の標的は薩摩になると十分、意識していました。ここは長州に踏みとどまってもらう手助けです。

 それと、外圧をひしひしと皆さん、感じていたことでしょう。現代では、国を支配下に置くなんて、そうそうはできない話ですが、150年前は世界的に帝国主義の時代です。有色人種の国を植民地化するのは当たり前な時代です。結局、昭和初期までに植民地化されなかった有色人種の国は、フランスとイギリスの緩衝地帯だったタイ(シャム)と日本だけだったとか。幕末の侍はやっかいな人々でしたが、上陸して日本国内でゲリラ戦になったらまずいと思わせた薩摩と長州のがんばりは、後々、効力を発揮しました。

 

 長崎の亀山社中を吉之助が尋ねるという場面が描かれていました。現在残されている亀山社中の印象とはずいぶん違い、えらく、広いセットです。吉之助は龍馬に商売をもちかけて、長州藩との折衝役を依頼します。このあたり、今までは龍馬から薩摩へ・・でしたね。承知した龍馬が長州へゲベール銃とミニエール銃との威力の違いを実際に実験して、見せてくれました。筆者は思わず、ほ~と思いまして、そりゃあ、武器としては威力のある方がいいですが、高いですよね。イノベーションです。アメリカで4年間行われていた南北戦争が186559日に集結し、日本流にいうなら、慶応元年の夏です。アメリカでの大戦争が終われば、そちらに武器はいらず、当然、余った武器のリユースを考えますよねぇ。次は日本で武器商人たちが暗躍です。

 

 何ともにぎやかな薩長同盟締結の場面でした。薩摩藩家老桂久武が同席していたのは、いいですねぇ。この方の日記でかなり、詳細に薩摩側の動向がわかりました。最も、久武は桂小五郎と「いろいろ話し」と書いているだけでして、この「いろいろ」の中に薩長同盟の中身があるのだろうと、推察されているのが現状です。

 御花畑屋敷がセットを組まれて、登場しました。これって、新機軸ですよ。御花畑屋敷は元々、近衛家の別邸で、幕末期に薩摩藩の上屋敷扱いで借り受けられました。その時の京における薩摩藩の最高権力者が住む役寮です。この場合は小松がそれにあたります。島津家の人が上京する際には、小松は別に移ったそうです。

 イギリスでの長州藩士と薩摩藩士との交流話が条約締結の重要キーポイントで登場しました。この話は史実で、密航に近い形で訪英した長州ファイブは金が無く、藩のお墨付き(上申したのは五代才助です。今回は登場しませんねぇ。残念!)で、ヨーロッパに渡った薩摩スチューデントの面々は懐豊かだったため、長州藩士に金を貸したようです。

 「せまい日本の中で、同じ国同士でちまちまいがみ合うのは、つまらんぜよ。」という龍馬のセリフは最後に彼らの背中を押しました。長州は藩ごと滅亡する覚悟ですから、強いわね。ここは、薩摩藩の方が先に折れて、長州から合意形成を得ました。吉之助が頭を下げてもだめなのですよ、ここは、小松が折れたことが重要です。薩摩藩を代表しているのは、吉之助ではなく、小松です。

 龍馬と大久保がシェイクハンドしていました。何やら、意味深です。龍馬暗殺薩摩黒幕説というのがありまして、学者の先生方はこぞって、大否定なのですが、NHKはこの説、大好きです。さぁ、慶応31115日夜の出来事がどう描かれるか、楽しみになってきました。

 

 御花畑屋敷の石碑です。

 

 御花畑屋敷の場所が特定される決定打になった絵地図も、現在、大阪歴史博物館で展示されています。この絵図に京都の町が3町記載されていて、実際の場所と広さが判明しました。

 

 

 こういう立派な銘板もつけられています。

 

 場所は地下鉄鞍馬口下車、すぐです。石碑は室町通に面した喫茶店前に建てられています。実際の屋敷の西端にあたります。広大だった屋敷も今では、普通の住宅地になっています。

 喫茶店の内部です。古民家で、なかなか趣があります。